ちくま文庫

凝視の笑い、逆転の明るさ

文庫版解説

宮田珠己さんは、伊藤礼さんの『ダダダダ菜園記』をどう読んだのか。4月刊のちくま文庫より解説を公開します。

 私が伊藤礼翁の文章に触れたのはずいぶんと遅くて、『こぐこぐ自転車』なる文庫本を書店で見つけ、タイトルの醸しだすアホアホな味わいに惹かれて、なんとなく買って帰ったのが最初だった。

 私はアホアホな文章を読むのが好きだ。関西生まれ関西育ちの私にとって、文章とはまず笑えてなんぼである。

 よって西に笑える本があると聞けば行ってページをめくり、東におかしな本があれば買ってむさぼり読み、南に死にそうな人があれば行ってこの本を読んだら笑うよと言い、北にケンカや訴訟があればつまらないからそれよりこの本を読めと言うぐらいで、ユーモアエッセイのなかでもとくに笑える本については、入手できるものはすべて網羅しているつもりだった。

 そうして多くの笑える文章を熟読玩味し、内田百閒の実に味わい深いアホアホな文章こそ最上という結論を下したうえで、その後日本の文学界に百閒の後継者がいないことを残念に思っていたのである。

 私は間違っていた。

 後継者はいたのである。ちゃんといたのに、迂闊にも私が知らなかったのである。

 後継者は自転車で走りまわっていた。

 すでに『こぐこぐ自転車』のなかでも伊藤礼翁は古希を迎えておられ、あとがきを読むと喜寿をも越えたとあったから、実に遅きに失したというか、よくぞこれまでこの稀有な文章にめぐり会わずにのうのうと生きてきたものだとわれながら忸怩たる思いがした。

 ちなみに翁の文章をアホアホなどと評するのは大変失礼な振る舞いのように読者は考えるかもしれない。その点誤解のないように申し述べておきたいのは、関西ではアホというのは最上級の褒め言葉であり、イギリスでいうところのサーの称号に匹敵するということだ。

 私は『こぐこぐ自転車』を読了するやいなや、翁の自転車三部作を即座に買い揃え、むさぼるように読んだ。まさに内田百閒『第一阿房列車』が自転車版として平成に蘇ったかのようだった。そうして『こぐこぐ自転車』のあと『大東京ぐるぐる自転車』を一気に読み終え、『自転車ぎこぎこ』を読んでいる途中で、突然ぱたりと読むのをやめたのであった。

 というのも、これを読んでしまったら後がないのではないか、と気になったからである。

 ただでさえ喜寿を越えている翁の作品なのだ。今後次々とこの阿房自転車シリーズが刊行されるとは考えにくい。であるならば、これがひょっとすると最後のエッセイかもしれない。そう思うと、どうしても読み終えたくなかった。本音では読みたくてしょうがないのだが、「まだある」状態でとめておく必要があった。

 これは実に歯がゆいことだった。

 手元のページをめくればすぐに笑えるのである。それなのに読んではいけないという苦しみ。

 そうして「読みたい」と「読み終えたくない」の二つの欲望の間で身動きがとれなくなっていたところへ、突然それはやってきた。

 本書『耕せど耕せど――久我山農場物語』(単行本時のタイトル)が刊行されたのだ。翁はご健在であった。

 私の喜びがいかほどであったか、言葉ではとても言い尽くせない。

この本のなかで翁は自転車を耕耘機に乗り替え家庭菜園の人となっておられたが、そのことは重要ではなかった。自転車であれ家庭菜園であれ、伊藤礼翁が書いたものならば面白いに決まっているからだ。

 読んでみて私は、自分の期待が裏切られなかったことを知った。手にとった勢いで一気に最後まで読み終え、おおいに笑って笑って、あ、しまった、全部読んでしまったと頭を抱えたのだった。

 いったいなぜこんなに面白いのか。

 翁の文章の面白さを私なりに分析すると、ひとつはその細部にこだわる視線、凝視の力ではないかと思う。翁の文章はすべてこれ観察で成り立っている。観察の対象はときに風景であり、また野菜であり、シビンであり、結局まあ何でも身近にあるもの全部であり、とりわけ自分自身である。それらを凝視することで、さまざまな細かい発見をする。その、ときにどうでもいい発見がいちいち面白い。

 同時に、私には、もっと重大な理由もある気がするのだ。

 それは、翁が何かをあきらめている、ということではないかと思う。

 たとえば翁にとっては大発見でも、見る人が見れば当たり前なこともある。普通はそういうことを書くと自分の無知をさらけ出すことになるからあえて書かないで済ませるものだが、翁は正直に書いてしまう。不勉強と思われようが頓着しない。そこにはとにかく自分はそんな偉そうなものではないというスタンスが一貫している。

 若い頃に親のすねをかじって生きていたこと(ご本人がそう書かれている)や、常に病気がちであったことなどから、自分には誇れるものなどないと思っておられるのかもしれない。

 そうした諦念のような何かが、翁独特の物腰のやわらかい文体を形作っているように私には思える。

 あきらめるのも悪いことではない。

 どこにもそうは書かれていないけれども、私には翁のそんな声が聞こえるような気がする。

 そうしてさまざまな見栄や体面を捨て去った底の底から、じわじわとすべてを肯定していく翁のまさに底力が、あらゆる局面でポジティブな笑いを支えているのだ。

 いったん底を打ってから反転し上昇する。

 だからこそ読者は、伊藤礼翁のエッセイを読むと、その飄々とした文体からは想像もできないほど強く勇気付けられるのである。

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