ちくま新書

『高校生のための哲学入門』を書き終えて

 散歩はそう好きではないが、自宅で開いている塾で生徒とつきあうことのない日に、朝から机に向かって本を読んだりものを書いたりしていると、夕方には体を動かしたくなってよく散歩に出かける。買物の必要があると、行きつけの店を通過するような道順を考えるし、そうでないときは、なるべく車と出会うことのない道を選ぶ。歩いている途中で予定外の脇道に入ったりもする。
 至って気楽な散歩だが、若者向けに原稿用紙二百七十枚の哲学の本を書こうと決めたとき、散歩の気楽さで書きたいな、書ければいいな、と思った。書きすすむなかで哲学の固苦しさがしだいにほぐれてくるような、そんな書きかたができればいいと思った。
 三章ぐらいまでは気楽な気分をかなりうまく保てたと思う。しかし、気楽な気分でどこまでも気楽に書きすすめるというわけには行かなかった。話題が気楽な気分に乗ってくれそうに思えなくなってきたのだ。
「遊ぶ」という一見気楽そうな標題を掲げた第4章あたりでそんなことが起こったものだから、笑ってしまった。遊びについて遊ぶように書く。そんな名人芸は手に負えそうにない。仕方なくほかに話題をさがすが、思いつく話題がどれもこれも気楽な気分においそれと乗ってくれそうにはない。むこうから、本腰を入れて扱ってくれ、と言っているようなのだ。
 ぶらぶら歩きはやめようと心に決めた。が、その一方、固苦しい論じかたはしたくはない、という気持ちに変わりはない。で、本腰を入れながら固苦しくならないように、—— 以後の執筆はそんな矛盾した課題をかかえこんだ作業となった。
 遊びについて本腰を入れて扱うとなれば、ホイジンガやカイヨワや安田武の遊びの論を参照せざるをえない。が、それらの高説を紹介し、それに付け加える形で自分の考えを展開する、というのでは若者向けの開かれた議論にはならない。編集者との話し合いでも、哲学者・思想家の固有名はなるべく出さない、かれらの文言の引用もできるだけ控える、という約束になっていたのだ。
 そこで『梁塵秘抄』の今様や、「鳥獣戯画」の遊戯図や、木下順二『夕鶴』の一場面に分け入っていく。むろん、高説と具体例は容易に結びつきはしないが、そこは、それこそ気楽に、気長に、行ったり来たりする。するうち、一日中遊び惚(ほう)けていた自分の子ども時代の感覚がふとよみがえってきたりする。そこで、遊びにふさわしいその感覚をうまくことばに定着できれば、と思って原稿用紙に向かう。そんなふうにして、少しずつ前へと進む作業だった。
 さて、「高校生のための哲学入門」とはいうが、高校生のためと限定しても限定しなくても、哲学に入門者用の決まった入口などあるはずもない。特殊にすぎる話題は避けるという以外は、若者たちが興味をもってくれそうな話題や、若者たちに考えてほしい話題ならなにを取り上げてもよかろうと思っていた。そして、書きすすむなかで、当初の予定にない話題を取り上げることにもなった。出来上がった本では、「遊ぶ」の前の三章が「自分と向き合う」「人と交わる」「社会の目」、後の四章が「老いと死」「芸術を楽しむ」「宗教の遠さと近さ」「知と思考の力」となっている。こうして目次だけを並べると、身近な日常世界から抽象的・精神的な世界へと視野が広がっていくように見えるかもしれない。そういう傾きがなくはないが、執筆中は、どんな問題にぶつかっても、いまを生きる現実感覚に立ちもどることが大切だと考えていた。
 新書版の小さい本ながら、改めてものを書く楽しさとむずかしさを経験させられた。書き終えてしばらく虚脱感に襲われたのも、苦労が小さくなかった証拠かもしれない。
 若者はもちろん、年配の読者にも、書きしるしたことばがまっすぐ伝わることを願っている。

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