ちくま文庫

翔太と由美の修学旅行

『翔太と猫のインサイトの夏休み』の文庫化に際して一文を、とのことでしたが、エッセイのようなものはおしなべて面白くないので、私にとって面白い哲学的問題をいきなり提示してみます。これは、二週間ほどまえ、『翔太と猫のインサイトの夏休み』の第二章を使ってやっていた授業の最中に、そこの議論との関連で、急に思いついたものです。

 映画の『転校生』やその原作の『おれがあいつであいつがおれで』では、男の子と女の子の体が(逆に言えば心が)入れ替わりますが、この思考実験では、心も体もいっしょに変化していきます。ただし、時間をかけて徐々に。
『転校生』が、心vs体(体はその姿形が変わらないだけでなく、その時空連続性も保たれる)なのに対して、私の新しいSFでは、心と体の連合軍に対して、相手は時空連続性だけです。つまり、翔太と由美は、二人とも独立に、徐々に(三か月ほどかけて)相手の心と体になっていくのです。体も変化していきますが、心もです。この場合、「心」の中心をなすのは記憶です。記憶が次第に交換されていくのです。
 記憶が次第に交換されていく! これは何を意味するのでしょう? たとえば翔太は、ある日、自分の修学旅行の思い出が全体として由美の視点からのものになっていることに気づきます。そのようにして、一ピースごとに思い出が入れ替わっていくのですが、翔太の時空連続体は、いつの時点で、翔太である僕の記憶のある部分が由美のそれに変わってしまったと思わずに、由美であるわたしの記憶のある部分に翔太のそれがまだ残っている、と思うようになるのでしょうか? 翔太体は、いつの時点で自ずと由美の家に帰るようになるのでしょうか?
 ここで、二つの疑問がわきます。第一に、記憶が入れ替わっていくその三か月の間の記憶はどうなるのでしょうか。記憶が入れ替わっていく経過自体をメタ記憶しているのでしょうか。第二に、記憶をピースに分けて移しかえることがそもそも可能でしょうか。由美の修学旅行の思い出の中には、旅行中に思い出した一年前のことや旅行後の計画のすべてが入り込んで来ざるをえないのではないでしょうか。

 ここまででもじゅうぶん難問ですが、ここでさらに、より重要な問題を付け加えます。すなわち、この世界はもともと翔太に中心化された世界なのです。つまり、由美はあくまでも他人のひとりなのです。すなわち、この世界は、もともと翔太の目から見えている世界で、ただひとり翔太の体が殴られた時だけ本当に痛く、現実に動かせる体は翔太の体ひとつしかない、という意味です。これを〈私〉と表記しましょう。
『転校生』のような話なら、〈私〉は、体の姿形と体の時空連続性の連合軍を敵にまわして、心(記憶とその他の心理的連続性)の側と連合します。「俺は女の体になってしまったよ!」と。そうであるならば当然、この新しいSFでも、〈私〉は身体を移動させて、新しい翔太体(もとの由美体)に移るはずです。だって、今度の敵は時空連続性だけなので、前より弱いはずですから。でも、いったいいつ?
 そして、もしメタ記憶が成立していたら? 〈私〉は、いつまでも最初の翔太体に固執して、新しい翔太体(もとの由美体)に移行できないのではないでしょうか? そうすると、ついには体も心もすべて由美になった翔太が出来上がることになります! 第一階の完璧な由美と第二階のメタ翔太との結合体が誕生するのです!
 さらにメタ記憶自体の取替えも考慮に入れて、その変化もまたどこまでもメタメタ記憶され続けることが可能であると考えると、哲学的にさらにもっと興味深い話になっていくのですが、それはまたの機会に。