ちくま新書

「現代の貧困」をまっとうに捉える

 この年度末は、昭和期東京の下層に焦点を当てた調査資料を沢山読んだ。約束していた資料解説の原稿を書くためである。『現代の貧困——ワーキングプア/ホームレス/生活保護』の校正の時期と重なってしまって忙しい思いをしたが、貧困の扱い方の今昔の違いを、あらためて確認できて、面白かった。
 今日の格差論や「下流」論の背景となった「平成不況」はよく昭和恐慌の時代と比較される。現代の失業や貧困が「ニート」や「ワーキングプア」等のカタカナ語を生み出したように、昭和恐慌期には「ルンペン・プロレタリアート(ルンプロ)」等の言葉が流行った。しかしこの二つの時期の「下層」の人々の捉え方を見ると、どうやら昭和恐慌期の方が多様な角度と手法で、その労働と生活の「実態」に肉薄しているようにみえる。
 たとえば、私が今回読んだ昭和初期の調査において、都市下層の人々は、自由労働者・日雇、都市に流入してきた求職者、労働宿泊所の泊まり客、救済制度の対象となる要保護世帯、不良住宅地区等々、多様な角度から徹底的に把握されている。これらは主に社会事業やここから分化しつつあった労働や住宅等を担当していた行政が、それぞれの関心から直接調査を行ったもので、今読んでも臨場感があり、当時の「下層」の実態や、これに対応しようとした行政の視点がよくわかる。むろん調査をやったからといって積極的な政策が出てきたわけではないし、種明かしをすれば、これらの調査そのものが知識階級失業対策事業の一つだった。が、それにしてもこれらの資料に述べられている多様な「実態」は迫力と臨場感がある。
 これと比べると、現在のワーキングプアや「下流」論議は貧困の「実態」に迫るというより、貧困を上から撫でている感じがしてならない。後年、これらを読んでもこの時代の貧困の「実態」は伝わらないのではないか。また現在の「下流」論や貧困論の中には、一見貧困を扱っているようでいて、実は現代社会の文明論にすぎない議論が少なくない。たとえばホームレス襲撃事件があると、焦点は襲撃する子どもたちを生み出した現代社会の分析に置かれ、肝心のホームレスの存在そのものへの関心はスキップされてしまう。これはどうも70年代ごろからの日本社会の特質ではないかと思うのだが、社会の精神分析のようなものばかりが好まれる。だから具体的な貧困そのものは置き去りにされて、それが生じている社会を高みから分析する、場合によっては貧困を茶化す、というような傾向が強い。
 もちろん、貧困は単純な「状態」の記述ではない。貧困は、それを「なくすべきだ」という判断とセットになっている。だから、貧困の「実態」を描くとか、それに肉薄するというのは、「なくすべき状態」とは何かについての議論をその内に含んでおり、それを前提としての多面的な「実態」把握である。このような意味での「実態」把握から具体的な政策提言が生まれてくることになる。
 今回の『現代の貧困』は、格差論、「下流」論の流れの中では後発グループに属するが、単なる格差論の延長でなく、また高みからの文明論でもなく、まっとうで地道な貧困論を一般の読者に届けたい、という編集者と私との一致した思いで出来上がっている。ありていにいえば、地道な貧困論は一般の方々にはわかってもらえないのではないかと懐疑的になりがちな私を、編集者が叱咤激励してようやく出来上がったというべきであろう。
 むろん貧困の資料が十分ではないことや、私の非力さから、本書もまた現代の貧困を上から撫でるところから抜けられない面もある。が、これまでの格差論や「下流」論と貧困論の違いを感じていただきながら、貧困の大きさだけでなく、貧困の「かたち」やそこに釘付けにされた「不利な人々」と、その不利を作り出す構造に関心をもっていただけたら、ありがたいと思う。