はじめての哲学的思考

第2回 宗教とは何がちがうの?

 前回に引き続き、今回と次回は、「哲学ってなんだ?」というテーマについて、もう少し深めてお話しすることにしたいと思う。
 今回は、まず、宗教と哲学は何がちがうのかというテーマについて。

宗教は“神話”で答えを出す

 宗教も哲学も、はじめはほとんど同じような問いについて考えていた。たとえば、なぜ世界は存在するのか? どうやってできたのか? なぜ人間はこんなにも苦しむのか? どうすればこの苦しみから逃れられるのか? 等々。
 これらの問いに、宗教は“神話”の形で答えを与えた。
 たとえば、ユダヤ教とキリスト教の聖典『旧約聖書』によれば、神さまが「光あれ」と言った時に世界は始まったとされている。
 今から5000年くらい前の、古代シュメール文明の宗教では、「始原の水」であるナンム女神が、天の神と地の神とを生んだことで世界が始まったとされる。
 シュメールと同じように、世界は最初水だったとする神話は、各地の宗教にある。天と地が分かれることで今の世界ができたという神話も、やはり世界中にある。日本の古代宗教においてもまた、世界は天と地の分離から始まったとされている。

 ミルチャ・エリアーデという大宗教学者によれば、このような神話は、人類が約1万年前に農耕をはじめて以来、世界のあらゆる場所で普遍的に見られるようになったという(『世界宗教史』)。
 たしかに、水も天も地も、農業には欠かせないものだ。だから、これらが神話の中核を占めたというのは、考えてみれば自然なことだ。
 竜退治の神話も、世界中にある。竜は水の象徴。だからその支配は、農耕文明においてはきわめて重大な意味をもっていた。
 「ノアの方舟」に代表される、洪水神話もまた各地に存在する。エリアーデによれば、これは、実際の洪水の記録である以上に、世界の終わりと再生を象徴しているという。
 農業には、季節の移り変わりや水の循環なんかがとても大事だ。だから人びとは、この世界がいつかその“循環”をやめてしまうことを怖れていた。そこで彼らは、古くなった世界がいったん滅びて、また若返ってよみがえるという神話を考え出したんじゃないかということだ。

 次に、「なぜ人間はこんなにも苦しむのか?」という問いについて。
 宗教は、これに次のような仕方で答えを与えた。
 たとえば、ユダヤ教やキリスト教は、アダムとエヴァが禁断の果実を食べてしまったことで、楽園から追放され、以来人間は死と苦しみを味わうことになったと考える。あるいは、古代インドの宗教は、魂は輪廻転生を繰り返し、それゆえに苦しみもまた永遠に繰り返されるのだと説く。
 じゃあ、僕たちはどうすればこの苦しみから救われるのか?
 キリスト教は、「それは唯一の神を信仰することによって」と説く。一方、インドの宗教は、「世界の“真理”を知ることによって」とか、「ヨーガの“修行”を通して」などと説く。
 このように、宗教は、「世界はどう始まったのか?」とか、「なぜ人間は苦しむのか?」とかいった問いに、人びとの実感に応えるような“神話”を通して答えてきたのだ。

宗教の難点とは?

 宗教ほど、人間精神の本質を象徴するものはない。
 そこには、「世界の秘密を知りたい」といういわば科学的な欲求がある。「苦しみから救われたい」という切実な願いがある。そしてまた、「崇高なもの」を感じ取る感受性がある。
 宗教は、人間精神のまるで総合デパートのようだ。

 哲学、それは、この精神の総合デパートから、いわばのれん分けをしてできたものだと言っていい。つまり歴史的に見て、宗教は哲学のお母さんなのだ。
 でも、なぜ哲学は宗教から飛び出したんだろう?
 それは、宗教には、その絶大な意義と同時に、どうしても避けられない2つの大きな難点があったからだ。
 宗教のひとつの本質、それは、上に見てきたような神話に対する“信仰”にある。
 “信仰”の力は絶大だ。それには大きく2つの意義がある。
 1つは、人びとに心の平安を与えてくれるということ。そしてもう1つは、同じ宗教を信じる人びとの間に、平和が訪れるということだ。
 ところが同時に、宗教には大きな問題もある。
 1つは、その宗教を完全には信じ切れない人がいるということだ。疑い深い僕たち人間は、人類はアダムとエヴァから始まったとか、魂は輪廻転生しているとか言われても、どこか腑に落ちないところがある。
 もう1つは、異なる宗教や宗派を信じる者同士が、しばしば激しく争い合ってしまうということ。たとえば、キリスト教とイスラーム。カトリックとプロテスタント……。
人類は、異なる宗教や宗派間の、激しい命の奪い合いを繰り返してきた。
 哲学が登場し発展した背景には、こうした数々の宗教戦争があったのだ。

哲学は“たしかめ可能性”を追う

 西洋哲学の源流は、今から2600年ほど前の、古代ギリシアにさかのぼる。エーゲ海、
イオニア海、地中海と、海に囲まれたギリシアには、当時からさまざまな民族が行き交っていた。だからきっと、異なる宗教や神話をもつ人びとの間に、激しい争いも起こっていたにちがいない。
 古代ギリシアの哲学者たちは、そんな社会背景において現れた。
 最初の哲学者と言われているのは、タレスという男。彼はこんなことを考えた。
 宗教は、人種や文化によってあまりにちがいがありすぎる。それに、それぞれの宗教の神話が本当に正しいのかどうか、“たしかめる”ことができない。だから、神話による世界説明にはちょっと無理がある。
 そこでタレスは、自然をじっくり観察してこう考えた。「生物が生きるのに必要不可欠なのは、水だ。それにまた、世界は広大な海に覆われている。ということは、万物は、その根本においては水でできているにちがいない!」
 有名な、「万物の根源(アルケー)は水である」という説だ。

 人類の知の歴史から見れば、ここにはある重要な進歩があった。なぜならタレスは、「水」というキーワードを、信じるべき“神話”としてじゃなく、みんなで“たしかめ合う”べき原理として示したからだ。
 実際、その次のアナクシマンドロスという哲学者は、「いや、水なんていう言い方では不十分だ。万物の根源(アルケー)は“無限なもの”であると言うべきだ」と言って、タレスを批判した。その弟子のアナクシメネスは、「いや、それは空気だ」と言って、師を批判した。
 哲学の歴史は、弟子が師匠をとことん批判してきた歴史であると言っていい。その点、教祖さまの教えを忠実に守る宗教とは対照的だ。
 先人のすぐれた思想を受け継ぎながらも、足りないところは徹底的に批判する。そして、思考をもっと先へと展開していく。それが哲学の精神なのだ。

 このように、哲学は“たしかめ可能性”を追うことで、“たしかめ不可能”な神話や信仰をめぐる争いに、何とか終止符を打とうと考えてきた。まさに、宗教は哲学の母なのだ。
 もちろんこれは、どちらがすぐれているという話じゃない。宗教には、宗教独自の意義がある。とりわけ、それが人びとの心に平安を与える力は、やっぱり偉大だと言わなきゃならない。
 それに、前にも言ったように、人間精神の総合デパートである宗教には、科学的な精神や哲学的な精神がもともと含まれている。哲学は、その中から、“たしかめ可能性”にとことんこだわる精神を意識的に取り出して、これを磨き抜く道を歩んできたのだ。

哲学は科学に取って代わられた?

 さて、でも鋭い読者の皆さんは、こんなギモンをもたれたかもしれない。
 あれ? でもそれなら、哲学と科学はどうちがうの? と。
 世界を“たしかめ可能”な仕方で説明するのは、今ではもっぱら科学の仕事だ。タレスやアナクシマンドロスやアナクシメネスたちが考えたことは、今では、宇宙物理学や量子力学なんかが、当時とは比較にならないレベルで研究を行っている。
 ということは、現代においては、哲学は科学に取って代わられたということなのだろうか?

 いや、そんなことはない。むしろ哲学は、今でもなお、科学の土台であると言うべきなのだ。
 それはいったい、どういうことなのか?
 次回は、哲学と科学のちがい、あるいはその関係性について、お話しすることにしたいと思う。

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