ちくま学芸文庫

熱血博士の破格の授業

 植物分類学と言わず、一般の園芸界においても牧野富太郎はカリスマである。そもそも学歴は小学校中退。だがしかし、植物知識の豊富さゆえに、のちに東大で教えるに至ってしまう。
 独学の人。不屈の人。自らを植物の精と呼んではばからなかった人。 九十四歳になるまで精力的に働いたエネルギーの人。
 そしてまた、牧野博士はおおらかな古代的、つまりは縄文的と言えるようなユーモアの人でもあった。
 例えば、「アケビ」の項では「女客あけびの前で横を向き」などと詠んでいる。この博士、困ったことに下ネタ全開なのである。ほとんど悪びれるところがない。
「馬糞蕈」の項では「食う時に名をば忘れよマグソダケ」「その名をば忘れて食へよマグソダケ」とも重ねて詠んでおり、ほぼ同じ内容のことを何度もしつこく言う様は、子供が糞尿の名を連呼するに等しい。このあたり、あたかも牧野博士の呵々大笑が聞こえてくるようで、まことに裏表がない。
 この手の川柳とも狂歌ともつかないものを、牧野富太郎はさかんに作り続けていて、おそらくお座敷で披露していたのではないかと私には思われる。小唄とか都々逸になりそうな艶っぽい文句、そして軽い調子がいかにも三味線に合うのである。
 牧野博士は枯れた俳味とか、和歌の雅びにはとんと興味を持たない。ひたすら庶民が歌える、わかりやすい形式と内容に終始する。何より歌えば周囲が盛り上がるわけで、彼がサービス精神のかたまりであったことが、この“拙吟”からもわかる。
 むろん、それだけならただの名物男で終わる。そのサービス精神が膨大な学識を連れて来るその凄み。つまり、次から次へと出てくる洋の東西を問わない書物の引用、正確な観察。
 書物収集の鬼でもあった博士は、同じく植物自体の収集にも血道をあげ続けたわけで、こうした知識における静と動の両方を兼ね備えていた人物というのは、歴史上大変珍しいと思う。
 また、牧野富太郎を語る上で欠かせないのは、誤った思い込みに対する執拗なほどの訂正だろう。有名な“ヒマワリ、日に回らず”という指摘は、今回の『植物一日一題』でも相変わらず繰り返されている。『秘伝花鏡』なる中国の書からの引用がまずあり、次に「朝から晩まで花を見つめておれば、成るほどと初めて合点がゆき」と書かれている。
 ここでも、牧野博士は書物と観察の両側から、ヒマワリが太陽の方を向いて回るというのは俗説に過ぎないと強調する。
 同様に「グミ」は「茱萸」ではないこと、「アジサイ」と「紫陽花」は違うことなどを、牧野博士は説いていく。確かに、我々は二十一世紀になってもまだ、正しい学説と俗説の区別をつけられずにいるのだから、この執拗さが学者としての毅然とした態度に裏打ちされていることがわかるだろう。牧野博士は決してあきらめない。正しいことを正しいと言い張り続ける。
 しかし、だからこそ、私は牧野富太郎のユーモアを高く評価するのである。主張一辺倒では固すぎる。常に牧野博士は俗説を信じてしまう庶民を見捨てず、だが同時に正しさへの尊重を忘れることがなかった。
 よく言われることだが、フロイトによるとユーモアというのは“親が子供を見守る態度”であり、その意味では少々子供っぽい牧野博士が、庶民に対しては親心を見せるのである。仕方ないなあ、君たちは……とため息まじりに微笑んで、再び授業を始めるようなものだろう。
 だから我々は老翁・牧野富太郎の飽くことなきエネルギッシュな授業を、時にはみかんでも食べながら、時には真面目に背筋を伸ばし、時には吹き出しつつ謹聴すればよい。
「男子蘭(オトコラン)! 何んとも勇ましい名じゃないか」などと、牧野博士は朗らかな声で話しかけてくる。破格の笑顔がそこにある。
 こちらは「はい、先生!」と答えるしかない。すると、植物が好きで好きで仕方ない牧野富太郎の熱情が自然に伝染する。
 熱血先生としての牧野富太郎。その教科書としての『植物一日一題』と思えば、この本がさらに楽しく読めてくる。

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