ちくま文庫

『教育とはなんだ』文庫版のためのインタビュー
「教育再生会議」の現場で考えたこと

——品川裕香氏に聞く

教育に関わる現場のさまざまな人たちにインタビューをした、重松清編著『教育とはなんだ』が出たのは二〇〇四年四月。ゆとり教育批判が噴き出し始めた頃でした。それから今日まで、政権も変わり安倍政権のいわば目玉として教育改革が掲げられ教育再生会議が招集され、その後安倍政権は崩壊。〇八年三月に『教育とはなんだ』を文庫化するにあたり、編集者という立場から教育再生会議のメンバーとなりさまざまな発言をしてきた品川裕香さんに、追加取材。その一部を文庫刊行に先んじて掲載します。

——教育再生会議はどうですか。「学力低下」が安倍政権の担保物件のようなものとしてあって、ゆとり教育を全面否定、教育基本法改正と結びつけられて、右傾化の象徴みたいにも扱われていますが。

品川 私は当初「これからの教育とは」とか「二一世紀にはこういう子どもを」などを話すのかなと思っていたのですが、最初から「学力低下」「規範意識の低下」というテーマがありました。それはたしかです。ただ、報道されていることと会議で話されていることの間にはギャップもかなりある。議事録を読んでもらえればわかるはずですが、喧々囂々(けんけんごうごう)やっていて、最初から恣意的にある方向に進んでいるということはないんです。最初から「出席停止だ」「バウチャー導入!」なんてことは、ない。

——マスコミは見出し映えするほうがいいから。

品川 PISA(OECDが行う、国際的な生徒の学習到達度調査)のデータが科学的に分析されることなく一人歩きして、いじめ問題や子どもの自殺などが続き、グランドデザインを出すべきではないかと考えていた会議に対し、いま目の前の、この問題をどうするんだ、というマスコミや世論からの突き上げもすごかった。今までの教育がいけないのではなくて、ただもう時代に合わなくなったのではないか、というところから始めようと考えても、このいじめについてどうするんだ、というような話がワアッと出てきて。

——教育って、「この子の涙が見えないか!」みたいな感情論で一気に流れてしまう恐れがありますよね。

品川 教育はみんなが経験していますから、誰でも一家言あります。でもそれは個人的経験でしかなく、認知や学習スタイルの多様性を踏まえた、科学的根拠のあるものではない。だから教育観そのものからもう一度問い直さないといけない。もっと言うなら、子どもをどうしたいのかというところからスタートして、課題を整理すべきだと私は考えていたんです。子ども観というか教育観というか。

——おっしゃる通りですね。この会議のメンバーになることが決まったとき、どう思われたんですか。

品川 いろんな専門家の方もいらっしゃるし、何が私にできるだろうと思いました。でも私は編集者であり取材者ですから、常に現場を見て裏を取り、伝えるというスタンスなので、それしかないだろうと。と同時に私は子どものスタンスでしかないんです。そもそもLD(学習障害)とかADHD(注意欠陥多動性障害)とかの取材を始めたのは虐待がきっかけ。だから子どもや若者の人権保障の観点からしかコメントできないし、するつもりもありませんでした。最初は違和感がありました。みなさん、秘書付きで黒塗りの車でいらっしゃるでしょう。あちらも何だろこの人、と思われていたと思います。でも最初はご存知なくても、私の発言を秘書やブレインの方たちが調べ、次の会議のときに確認してくださる方もおられる。その意味でしっかり話を聞いてくださいます。

——安倍元首相が広島の少年院に行きましたね。「励まされた」って言っていたでしょう。あれ、どう思いましたか。

品川 安倍さんは、ほんとうに感動しておられたんですよ。

——「よく頑張ったね」という、ある種の同情でしょう、だけど。「よく頑張ったね」的な情で救っても、何も変わらないのに。

品川 私は、個人的には安倍政権が倒れたのはすごく残念でした。彼が広島に行くまでには、すごくいろんなステップがあったんです。安倍さんは表現がお上手ではないのかもしれませんが、「励まされた」と言ったのは、つまり教育に力を入れることが確実に子どもを変える、生きるスキルを与えることがわかった、ということに対してだと私は思います。広島少年院の向井義主席専門官(当時)のやり方は、全然甘やかしていない。そのベースには深い愛がありますけどね。でも今の学校教育は、できないことに対して「無理しなくていいよ」と言うんです。LDの子どもが字を書くのが苦手なら「無理に書かなくていいよ」と言う。だから字を書くチャンスがないままに社会に出て、定期ひとつ買えないことになる。私はそういうのを「配慮という名の排除」と呼んでいますが。だから安倍元首相の広島少年院訪問は、そういった今の教育が抱え込んでいる課題を認識し、新たな可能性を信じてそこから脱却するための第一歩だったと思っていました。
 ようするに、何のために教育するのかとか、子ども・若者の権利保障や権利回復をしっかり突き詰めてこなかったことが問題なんです。文科省だけでなく、中央教育審議会も含めて教育の専門家が、そこについてのコンセンサスをちゃんととってこなかった。すくなくともその点についての議論、分析や検証はあるべきなんです。
 学習指導要領がどうしたという話は中教審に任せればいいんです。でも、中教審がどうしても言えないことがある。非行だったり不登校だったりする学校不適応を起こしている子ども、今日メインストリームにいても、明日にはいじめがきっかけでそこから落ちこぼれていく子どももいます。そういう子どもを私は取材し続けているし、ですから学校教育イコール学力だけではないということも痛感しています。
 目の前の議題がいじめや学力低下であっても、その背景を考えたとき、学力低下もまず体力を付けなければ学力は上がらないわけです。日本の教育の最大の不幸はエビデンスベースで語らないところ。教育の目的を「生きる力」とか「豊かな心」なんて抽象的な言葉で語っても、その中身を具体的に問い、ターゲットを明確にしなければ戦略はあいまいになる。なのにそこについての議論がない。

——トヨタの張富士夫さんが、教育の出口の側から発言したいとおっしゃっていましたね。つまりどういう人間を作るかが出口なんだけれど、確かに具体的な「出口論」というのは、ごく最近まで注目されてきませんでしたね。

品川 私からすると、教育の目的というのは、それはもう社会化なんです。確かにずっと教育者が子どもに労働を教えてこなかったという主張をする学者もいる。キャリア教育を言い出したのは、ここ四、五年でしょうか。なぜ教えてこなかったかと言えば、日教組と教育委員会のバトルもあったでしょうけど、背景には、労働者を、搾取される側を育てるのか、という批判があったのではないかと。でも、どんな課題のある子どもも言うことが一つあって、それは、自分で稼いで自分で食って自分で自由に生きたいということなんです。搾取する側とされる側、という発想自体がもう時代に合わず、大事なのは社会を生き抜くスキルを身に付けることだと痛感しています。そのスキルの中身を本当は問わなければならない。漠然と「生きる力」と言っていてもだめなんですね。
 イギリスではエブリ・チャイルド・マターズという白書が出て、若者の自立する権利、シチズンとして生きる権利、社会に参画する権利を保障し、ブレアの時代に予算も一気に倍増しました。あのブッシュですら二〇〇二年にノー・チャイルド・レフト・ビハインド・アクトという法律を作り、どんな子どもも教育で落ちこぼれさせないよう機会均等を保障している。これは予算が付いていないので賛否両論はありますが。でも日本は、子どもの権利条約を批准しているのに、そういう法整備をしようとしない。

——ロマンチックに語っているだけ。

品川 でニートや日雇い雇用が出てきてどうする、と。

——それじゃ遅いですね。

品川 その前に、学力だけではなく社会に出て生きていくための必要なスキルはなんなのか、教育界ではないところでエビデンスが出ているんですね。そうした情報がうまく統合されていないんです。

*     *
「社会で生きるスキルを身につける教育」を具体的に実現するためにどうすべきか、品川裕香さんが教育再生会議での議論を踏まえて、以下、展開します。文庫版『教育とはなんだ』でぜひ続きをお読み下さい。

※このインタビューは文庫版刊行時のものです。

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