ちくまプリマー新書

ファッションとしての読書

 僕は買い物依存症かもしれないと思うことがある。もちろん大学教員の常として裕福ではないから、買えるものには限りがある。何十万円もするスーツとか何百万円もする腕時計を買うわけではない。
 着るものはたいてい新宿伊勢丹のコム・デ・ギャルソンで買うけれども、インナーはムジ(MUJI)ですませる。それでも、季節ごとにジャケットやスーツを何着か買わないと気がすまない。ムジでは気に入ったシャツは同じものを何枚か買ってしまう。最近はアニエス・ベーのTシャツにも凝っている。でも、タンスの肥やしになることが多い。消費が僕たちの都市との関わり方の一つであることは都市論の説くところだから、そういう側面もあるのだろう。しかし、それだけではない。その服を着た、まだ見ぬ未来形の自分の姿が僕をとらえるのだと思う。
 書店も同じだ。町の書店では、そこにある本は入る前から予想がつく。ベストセラーと雑誌と実用書と文庫と、それに新書が少し。それでおしまいだ。まるで過去の時間に戻ってしまったような感じがする。そこには、知らない自分がいない。しかし、都市の書店はそうではない。知らない本ばかりだ。その本を読めば、僕は「いま・ここ」にいる自分でない自分になれる。つまり、そこには知らない未来形の自分がいる。そんな気がしてワクワクする。それは、新宿伊勢丹のコム・デ・ギャルソンに行くときと同じ感じだ。
 大型書店の本の見せ方にも、デパートのように個性があって楽しませてくれる。とにかく本を探すなら、図書館みたいに本を詰め込んだジュンク堂がいい。通勤の乗換駅にある新宿店にはよく行く。最近、フロアーが一階増えて三フロアーになったのでさらに充実した。ただ、新書のコーナーがエレベータから一番遠くなったのは、僕には不便だ。
 それに、あまりに図書館みたいで、ジュンク堂がどの本を売りたいのか、書店の哲学がわかりにくい。いや、それこそがジュンク堂の哲学なのだろうとはわかっていても、ちょっと押しつけがましい気がするかな。僕のように、コム・デ・ギャルソンのデザインに頼り切っているような人間には、ジュンク堂は使いこなせないのかもしれない。だから、あれもほしいこれもほしいと立ち読みをしていると、すぐに一時間や二時間は経ってしまう。未来形の自分を探して、迷路に迷い込んだような趣がある。でも、時間がたくさんあるときには、ジュンク堂で時間の迷子になるのは楽しい。
 それに比べれば、斜向かいにある紀伊國屋書店新宿本店は、過去と未来がほどよく混在して、「ふつう」であるところが安心感を与える。品揃えはジュンク堂にかなわないが、これを売りたいという哲学がはっきりしている。こういう書店をかえって無個性だと言う人もいるが、デパートが季節ごとのモードを売るように、書店もその時々のモードを売る姿勢があっていい。だって、僕は服を買うように本を買うことも少なくないのだから。実際、流行の本はなるべく買うようにしている。それに、装幀が美しいというだけの理由でまるで専門違いの本を買うこともある。それは、平積みの多い紀伊國屋書店新宿本店で味わえる楽しみ方だ。ただ、一階の売れ筋コーナーにもう少し人文書を出してほしいけれど。
 今度ちくまプリマー新書から出した『未来形の読書術』は、僕のこういう書店との関わり方を「読書」という営みへ応用したものだと言えるかもしれない。未来形の自分を探すためにはどういう読者になりすませばいいのか、小説を読むときにはどんなふうに迷子になればいいのか。そういうことを、近代文学研究が学んできた方法をきちんと踏まえながら、高校生にもわかってもらえるように書いた。
 書物はファッションだし、読書は着こなしのようなものだ。どうせ本を読むのなら、おしゃれな読者になりたいと思う。あなたはそうは思いませんか?

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