上田麻由子

第10回・まぼろしの8月1日

『超進化ステージ「デジモンアドベンチャー tri.~8月1日の冒険~」』

 ピコピコという電子音がかすかに響き、幾何学的な模様がスクリーンに映しだされては消える。どこか近未来を思わせるデジタルな空間に、一匹の小さな生き物が倒れている。肉食恐竜のようでいて、小さな体にはあどけなさが残るその生物、アグモンが寝言のように繰り返す「たいちぃ……」という言葉。それは、この現実世界から流れ込んだデータが実体化する「デジタルワールド」で、かつてパートナーとして共に戦った人間の子供、八神太一の名前だった。

1999年の夏休み

 1999年から2000年にかけて放送されたアニメ『デジモンアドベンチャー』は、1999年8月1日にサマーキャンプに出かけた小学生7人(のちに1人追加)がパートナーのデジモンたちとひと夏の冒険をする物語だ。コンピューターが誤作動を起こす「2000年問題」なども騒がれる20世紀の崖っぷちに放送された作品らしく、「デジタルワールド」は果てしない電脳空間と、モンスターが跋扈するファンタジーの世界とのあいのこのような場所で、そこにおける歪みは、いつしかこの現実世界に影響を及ぼすことになる。

「デジタルワールド」に突然、放り込まれた彼らは、まず子供たちだけでなんとか生きていかないといけない。そのためには、パートナーであるデジモンを探し、交流を深めるだけでなく、みずから成長することで、それとシンクロするようにデジモンたちは「進化」し、強くなっていく。

 ポケモンを卒業した世代に向けられたシリーズらしく、子供たちが出会うさまざまな家族や社会の問題も織り込まれ、まさに少年少女が世界を知っていく、その一筋縄ではいかない過程を丁寧に描く。それによって子供だけではなく、かつて子供だった大人の琴線にも触れる。そんな作品中で何より胸を打つのは、共に生きる「パートナー」としての子供たちとデジモンの姿である。

デジモンたちの眠るところ

 アグモンが太一の名前を、あのおなじみの少ししゃがれた声(CV:坂本千夏)で呼ぶシーンで始まるこの舞台版『超進化ステージ「デジモンアドベンチャー tri.~8月1日の冒険~」』は、声優の「声」の持つ圧倒的な喚起力でもって、いきなりわたしたちの心を、あの1999年8月1日に引き戻す。

「朝かな、もう起きなくちゃ」と目覚めたアグモンは、「夢のなかみたい」な「なんかヘン」な世界のなかで、なぜか体の自由がきかない。一歩踏み出そうとするたびに倒れてしまうが、そのあいだじゅうずっと太一の名前を呼び続ける。この愚直なほどのけなげさが、わたしたちの心を引っ掻く。

 体がうまく動かない理由は、彼らのいるサーバーで重たいプログラムが走っているせいではないかと、別のデジモン(テントモン)によって説明され、8体集まった彼らは、いまや高校生となった「選ばれし子供たち」のいる現実世界へと飛び出していく。しかしこの導入部は、もしかするとデジモンたちをまどろませ、動きを鈍くさせていたのは、1999年の夏休みにあんなに熱狂しつつ、そのことをいつしか忘れている自分たちのせいではないか、というわずかな罪悪感をも、見る者の心のなかに残していく。

選ばれし子供たちの「その後」

 この舞台版は「選ばれし子供たち」が過ごした1999年の夏休み(それは現実世界では8月1日からたった3日間の冒険である)の6年後を描く、現在劇場公開中のシリーズ『デジモンアドベンチャー tri.』を「原作」としている。「原作」とはいえ物語はオリジナルで、結論を先に言ってしまうと、デジモンたちとの関係が形を変えていくこの新シリーズにどこか心が追いつかない、元「選ばれし子供たち」ファンにこそ「刺さる」、ギャップを埋めるサイドストーリーが描かれている。

 高校生になった「選ばれし子供たち」は夏休み、奥多摩でキャンプする計画を立てる。あの夏と同じように8月1日、あの始まりの場所で。「私たちはまだ子供だった。だけど何も変わってない。あのころのまま、みんながいて、あなたたちがいて」と、自分のパートナーデジモンであるピヨモンに話す、武之内 空(森田涼花)の表情には、決して楽しいだけじゃなかった「あの夏休み」への複雑な思いが見て取れる。

 なんだかんだで8人(と8体)は集合し、キャンプに出かけていく。高校生になって「人が変わったように暗かった」太一(松本岳)も、いざキャンプ場についたら、かつてのようなリーダーシップを発揮したり、熱いところを見せたりする。いっぽう、そんな太一となんとなく関係がぎくしゃくしていたクールなバンド少年・石田ヤマト(橋本祥平)も、変わらぬ料理上手なところをうかがわせる。城戸丈(小松準弥)のコミカルなポンコツさも懐かしい。おなじみのオープニング「Butter-Fly」をバックに手短に紹介される8人のキャラクター、慈愛に満ちたまなざしにあらわれるデジモンとの絆、その「変わらなさ」にホッとするいっぽうで、星空のもと手作りのカレーを食べながら将来への夢をしっかりと語る姿には頼もしさも感じる。そして、太一とヤマトがいつしかあのころのような関係に戻っていく様子に頬が緩むことだろう。

自己幽閉する子供たち

 しかし明朝、何かがおかしいことに一同は気づく。実は、かつて倒したはずのデジモン、サルの着ぐるみに身を包んだエテモン(オレノグラフィティ)の策略によって、彼らは閉鎖空間に閉じ込められていたのだ。デジモンの進化は止められ、戦う手段のないまま、永遠に8月1日でありつづける世界で、彼らは怠惰な時間を過ごすことになる。

 そうするうちに、ある疑念が彼らの心に浮かぶ。この空間を生み出しているのはかつての敵ではなく、もしかすると、どこかであのころに戻りたいと思っている、自分たち自身なのではないか――。

 テレビシリーズがそうだったように、この作品のなかで時間はいつもまっすぐ前にだけ進むわけではない。人は成長したり、進化したりするだけでなく、退化もするし、間違った方向に進むこともある。しかし、そんなふうに迷ったり、悩んだり、立ちすくんでしまったとき、手を差し伸べてくれるのは他でもない仲間であり、パートナーデジモンなのだ。「心のどこかであのころの自分に憧れていた」と告白する太一を、ヨロヨロになりながらも励ますアグモンの姿は涙を誘う。そして「選ばれし子供」と「デジモン」との心が一つになったとき、はじめて「進化」は可能になり、その演出は巨大なスクリーンを使った映像の迫力とともに大きなカタルシスを生む。

8月1日が終わるとき

 この作品を2・5次元たらしめているのは、声優×人形×若手俳優という三者の幸福な出会いだろう。まず、スポーツものの2・5次元が、その白熱する試合を表現するための「発明」をつねに必要としているのと同じように、デジモンという2次元ならではの存在を舞台上で表現するには、ぬいぐるみや映像を使う、あるいはまったく出さないなど、さまざまな方法がありえたはずだ。

 そのなかで本作はデジモンたちを、人形劇団ひとみ座による人形を1体1体、人間がリアルタイムで操ることで、あたたかみと質量のある存在として表現した。かつて「選ばれし子供」として世界を救ったという、高校生にして、すでにあまりに輝かしい過去を持っていて、そのことが小魚の骨のように喉元に刺さったままの思春期男女(そういう意味ではこの作品は『あの花』も想起させる)の人生の岐路において、デジモンを手で触ったり、撫でたり、背中に乗せたり、抱きしめたりすることで、その存在をじかに感じるのは、きっと必要なことだったにちがいない。あのころの思い出が確かにそこにあり、また確かに自分の一部になっていることを、身をもって知るために。それと同時に、わたしたちがデジモンの愛おしさや「選ばれし子供たち」の葛藤をまざまざと思い出し、今目の前にいる高校生たちの心に寄り添うことができるのは、この舞台上でのデジモンの存在感あってこそなのである。

 そして、デジモンの息遣いを支え、補完する人形つかいの豊かな表情や動き、また熟練の声優たちによる演技は、若手俳優たちのみずみずしい芝居とあわさることで、いっそうの説得力を持ち得た。かわいらしい人形たちがたくさん出てくるため、一見、小学校の体育館で上演される子供向けの演目のように思えるかもしれない。しかし実際は、アニメがつねに得意としてきた思春期の喧騒というテーマ、その「終わらない夏休み」の万能感と、それがひとときの夢として儚く終わってしまうことを知っているがゆえの離れがたさ、それを振り切る強さとすこやかさを描いた、2・5次元のザ・スタンダードといいたい、時代の雰囲気に即した作品に仕上がっている。

 
 

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