筑摩選書

なぜ、菊池寛と『文學界』グループを問うのか

4月の筑摩選書より「まえがき」を公開します。鈴木貞美さん『『文藝春秋』の戦争』の冒頭を立ち読みすることができます。

菊池寛がつくった総合雑誌『文藝春秋』と、その周辺の文化人たちが深く「大東亜戦争」にコミットしたのは、いったい、なぜだったのか。

 菊池寛が、一九二三年、薄いパンフレットのような、自ら「雑文雑誌」と称する『文藝春秋』を創刊し、瞬く間に、いわゆる新中間層、和製英語でいうサラリーマン層を引きつけ、総合雑誌のトップに押しあげたことはよく知られる。そして、第二次世界大戦に際して、文藝銃後運動に邁進したこともよく知られる。彼が、リベラルな立場から転じて、対米英戦争へ突き進んでゆく日本の知的大衆を牽引する役割を果たしたことは否めない。

 ある批評家は、『文藝春秋』は中道の立場だったが、日中戦争がはじまるとたちまち戦争協力に転じたといい、左翼ないしは反権力主義の立場から、「中道主義というものは、そんなものでしょう」と決めつけている。別の批評家は、「『九・一八』以後、急速に右傾化を強めつつあった。

『文藝春秋』は、全面戦争と同時にファッショそのものになった」といい、「その第一歩が『JapanTo-day』の発行であった」と続けている。

「九・一八」は、一九三一年の満洲事変の発端、関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破、それを中国側のしわざとし、つまりは謀略により満洲を制圧するに至る柳条湖事件のこと。「全面戦争」が一九三七年夏からの日中戦争の本格化を指すのは、いうまでもない。『Japan To-day』は、『文藝春秋』一九三八年四月号から一〇月号まで付され、また単独でも海外に発信されたタブロイド判八頁の欧文(英仏独文)付録のことである。

 一九三七年九月号(八月一八日印刷)、すなわち八月下旬に刊行された『文藝春秋』の菊池寛による雑感録、「話の屑籠」は「北支に於て、日支が戦端を開いた事は遺憾である」と述べている。国民の多くが戦争気分に掻き立てられ、湧いていた時期、菊池寛は、少なくとも当初は、日中戦争の拡大に反対していたのである(なお、『文藝春秋』の印刷日、すなわち当局への届け出は、創刊から一九二五年までは前月二五日以降、一九二六年に二二日前後になり、一九二八年以降は一八日に安定、一九四二年より二〇日が標準)。

 その前年、一九三六年九月号から一年間にわたり、マルクス主義労農派を率い、反ファシズムの論陣をリードした山川均が『文藝春秋』に毎号、執筆していた。これも知られていないらしい。実際のところ、戦争を忌避する態度が厳しい弾圧の対象になったのは、一九三七年一二月、日本軍が南京虐殺事件を起こした月からである。翌年二月初めにかけて、マルクス主義の労農派グループ四〇〇人が検挙された。いわゆる「人民戦線」事件である。

 そのとき、真っ先に発禁処分を受けたのは、文藝春秋社刊行の『文學界』一九三八年一月号(三七年一二月一〇日印刷)だった。戦争気分を揶揄する石川淳の短篇「マルスの歌」が弾圧の対象になった。石川淳も常任編集長だった河上徹太郎も罰金を徴収された。実際に払ったのはスポンサー、菊池寛だった。菊池寛のバックアップを受け、小林秀雄、河上徹太郎が率いた編集同人雑誌『文學界』は、リベラルな立場から、いわゆる純文学文壇をリードする地位にまで昇っていった。そして、菊池寛が『文藝春秋』に毎号のように書いた「話の屑籠」は、その後も言論弾圧への抗議をやめなかった。

 その翌年、『Japan To-day』刊行にあたって、一九三八年四月号の菊池寛「話の屑籠」は「国家の目的に協同する」姿勢を明らかにしている。が、『Japan To-day』は、日本文化の国際性を強調するものだった。国粋主義とか、ファッショとかいうのとはだいぶちがう。

 そして、一九三七年九月号の『Japan To-day』には、三木清の英語論文「われわれの政治哲学」(Our Political Philosophy)が掲載されている(『三木清全集』未収録)。資本主義の矛盾の解決をめぐって自由主義、共産主義、ファシズムが競合する国際情勢に対して、東亜ブロック論を打ち出していた。これは、近衛文麿のブレーン・トラスト(知的諮問機関)、昭和研究会の「東亜協同体」論の最初の表明だった。『改造』一一月号(一〇月一七日印刷)に、蠟山政道『東亜協同体の論理』が掲載される。それらを受けて、近衛文麿内閣は、泥沼化した日中戦争を打開するために、一一月三日に「東亜新秩序」建設を宣言する。

 この間の経緯については、本論でより詳しく紹介するが、菊池寛と『文藝春秋』について、また『Japan To-day』について、先の評言はどちらも、中身を読まず、いや、目次すら眺めたこともなく、勝手な決めつけや憶測によるものといわざるをえない。

 それに対して、菊池寛の姿勢を「少しでも日本の国策を理性的たらしめようとした」と評価する人もいる(後述)。「国策を理性的たらしめる」とは、いったいどのような意味か。理性的でない国策を合理化するような論理を提案したのだろうか。

 一九四一年一二月八日の真珠湾攻撃を機に『文藝春秋』は、出版界の先頭に立って「大東亜戦争」を牽引する姿勢を露わにする。そのことにまちがいはない。そして、対米英戦争の開戦によって、小林秀雄や河上徹太郎は、気持が吹っ切れたと語っている。小林や河上のこの気持について、わたしは二十代のころから、ことあるごとに考えてきたが、どうにもうまく理解できなかった。

 小林秀雄は、敗戦後、共産党系の批評家から「戦犯」と名指しを受けた。他方、小林秀雄に好意的な批評は、戦時期の彼は「内面に沈潜した」と語ってきた。日中戦争期から「日本の知性」のあるべきかたちを探っていた河上徹太郎が一九四二年夏に『文學界』で「近代の超克」座談会を開いたことはよく知られる。のち『知的協力委員会 近代の超克』(一九四三)として刊行された。この名前は、「国際連盟知的協力委員会」の下に「最高水準の知的協力」を行う「芸術文芸委員会」を主宰したフランスの詩人、ポール・ヴァレリーの向こうを張ったものだった。単行本『知的協力委員会 近代の超克』に、河上徹太郎がヴァレリーの名をあげ、非難していることからもそれは明らかである。ヴァレリーは反ファシズムの国際活動をしたが、河上徹太郎はファシズムに同調する日本の知識人の糾合を考えたのだろうか。この時期の小林秀雄、河上徹太郎の動きについて、納得のゆく説明はされてこなかったと思う。

 彼らに限った話ではない。戦争中の雑誌に目を通していても、検閲をかいくぐってなされる言論や作品の意味が、わたしには、よくつかめないことが多かった。だが、一九九〇年代に入るころから、少しずつほぐれてきた。日本の対外戦略の変化につれて、検閲基準も変化していたことに気づいたからだ。それには、中国の研究者の協力を得て、「満洲国」の文芸雑誌や総合雑誌の復刻をつづけてきたことも大いに役立っている。「満洲国」の日本語総合雑誌『藝文』一九四二年八月号の座談会では、小林秀雄が「政策には全面協力」と明確に語っていた。その他、様ざまな新資料を得て、それぞれの時期のそれぞれの立場がはっきりしてきた。

 すると逆に、戦後にいわれてきたことが的外れだったことがわかってくる。「協力か、抵抗か」「ファシズムか、デモクラシーか」の二分法、あるいは、それら二項の組み合わせによっていては、戦争期の人びとの態度の変化も、その理由もつかめない。戦争を戦った人びと、率先して協力した人びとが、その時どきに、どんな思いで、ということが問われてこなかったに等しい。だから、「あの戦争」の亡霊がいつまでも漂い出てくるのではないかとも思う。「あの戦争」を帝国主義侵略戦争、国内体制をファシズムと規定すれば、それですむという態度では──それぞれに議論が必要だが、たとえ、それが正しい本質規定だとしても、本質に還元してしまっては──、当時の言論や文芸作品を読みまちがう。

 本書の目的は、しかし、日中戦争から「大東亜戦争」、敗戦に至る経緯にそって、自由主義や中道の立場、いわゆるリベラルな立場の知識人の態度の変化を明らかにするためだけではない。当時の「日本人のつもり」をいくら明らかにしても、侵略を受けた側の人びとにとっては、さほど意味があるとは思えない。「あの戦争」が、そしてその経緯が、アジアの人びとにとって何だったのか、をも同時に問わなくてはならないだろう。その双方の思想の中身を問いなおすことこそ、日本だけでなく、アジアの、いや世界の人びとが国境や文化を超えて共有しうる歴史認識、人びとが未来に向けて歩み出すための土台石をひとつ積むことになると思う。

 なお、本書では、盧溝橋事件に端を発する日本-対-中国国民革命軍の戦争を「日中戦争の本格化」、ないしは「日中戦争」と呼び、一九四一年一二月八日の真珠湾攻撃にはじまる対米英蘭戦争(対中国戦争の継続をふくむ)を、日本の側から論じる場合には「大東亜戦争」を用いる。当事者の立場を内在的にとらえ、批判的に検討することが批評の鉄則と考えるゆえである。

 関東軍の将校が太平洋方面の戦争の意味で「太平洋戦争」という語を用いているのを『藝文』で見かけたことがある。一般にも、当時、太平洋戦線、ビルマ戦線などと呼んでいた。だが、「太平洋戦争」(The Pacific War, The Battle of the Pacific)および「アジア太平洋戦争」(the Asia-Pacific War)は「大西洋戦争」(The Battle of the Atlantic)に対するアメリカ側の用語である。周知のように連合国軍総司令部が占領下に、これを用いることを強制した。ただし、検閲者が「大東亜戦争」の語を見逃している例もないことはない。

 既成の分析スキームの由来を問いなおし、それらの転換をはかる本書では、皇国史観、「東亜百年戦争史観」はもとより、極東軍事裁判(東京裁判)史観をも批判的検討の対象とする。「日本人の歴史認識が問われている」といわれて久しいが、それには、戦前、戦中、そして戦後にわたって、日本の現代史観、思想文化史観から問い直さなくてはならないからである。

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