ちくま新書

私が読んだ「ちくま新書」・「哲学的思考」をやめる技術

 エッセイでとりあげる本を選ぼうとしてちくま新書の哲学関連ラインナップを眺めていたら、ほとんどすべてを読んでいることに気づいた。我ながらよいお客さんだなあ、と感じ入る。とくに『誰それ入門』シリーズにはお世話になりっぱなしだ。永井均さんの『ウィトゲンシュタイン入門』や石川文康さんの『カント入門』。とりわけ『カント入門』は、「やっ、今日の授業で『判断力批判』に触れるんだった」というときなど(私にもそういうことがあるのだ)、あんちょことしていつも目を通す。誰それ入門シリーズは粒ぞろいで、どれも安心して推薦できる。
 しかし「安心して推薦」されちゃったりしたら、著者の皆さんは愉快ではないだろう。それには理由がある。「誰それ哲学のポイントを明快に解説」したりするのは、あまりホントウの哲学じゃないんじゃないかと、書いた本人もうすうす感じているからだ。じゃ、ホントウの哲学って何だ。
 この問いに答えようと、哲学はフローベールも真っ青の紋切型を量産してきた。曰く、「哲学は哲学学とはちがう」とか「子どもの頃に抱いた疑問を一生考え抜く」などなど。こういうのって「あいつは戦ってるゼ」とか「勇気をもらいました」くらい恥ずかしい。何だかヤンキーっぽくないすか。肥満児だった頃に「どうして僕はモテないのだろう。どうやったらモテるんだろう」と疑問を抱いた私は、それ以来ずっとこの問いを考え抜いているけど、哲学をしている充実感は、ないな。
 やっぱり、「哲学っぽいこと」を考えるのでなければ。真理、存在、美、正義、そういう抽象概念について。哲学史を学ぶことの意味は、どんな題材を考えれば「おっ、テツガクしてる」と言ってもらえるかがわかる、ということにある。ところが、哲学っぽいことであっても、単に考えればよいというわけにはいかない。抽象度の高いことについて自分の頭でトコトン考えたら、フツーはどういうことになるか。「存在の謎が解けました」とホームページを立ち上げたりすることになったらどうしよう。
 というわけで、哲学とは哲学っぽいことを哲学っぽく考えることなのでした。この「哲学っぽく考える」ってところがミソだ。しかしそれっていったいどういうことなの? 伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』は、この問いに正面から答えようとした怪作だ。なーんだ。それってよくある「クリティカル・シンキング本」でしょと言う奴は、もう金輪際、本なんか読まなくていいからね。そこで、この本の哲学書としての重要性について論じよう。残り字数が尽きかけているというのにだ。
 伊勢田本は、哲学っぽく考えるとはどういうことかを明らかにし、それはもうちょい下世話でフツーのことを考えるときにも役に立ちますよと主張する。伊勢田さんが考える哲学的思考のキモは「ほどよい懐疑主義」だ。懐疑とは自他の議論にツッコミを入れることを言う。本書の前半では、相手の議論を再構成して、ツッコミどころを見つけるための方法が伝授される。ここだけ読むと、たしかにクリシン本と勘違いしてしまいそう。
 この本の白眉は第三章「疑いの泥沼からどう抜け出すか」だ。ここで、懐疑を途中でやめるための方法として「文脈主義」が提案される。これはスゴイことなのだ。何せ、哲学的思考を活かすためには、哲学的思考(懐疑)をうまいところでやめなければならない、と言っているわけだから。弾みのついた哲学的思考を途中でやめるトレーニングが重要だと言っているのだから。
 私は、こうした哲学観に賛同する。哲学は、チョットだけ過剰に考えるということだ。あくまでチョットだけ。こう言ってもよい。哲学はアチョーと暴走する思考の寸止め技術だと。うまく止まらないと、「アイタタ」と言われてしまう。
 伊勢田さんはこれまでの著作の中で一貫して、線引き思考を批判し、「程度の問題」として考えることの重要性を訴えてきた。「ほどよさ」を重視する彼の姿勢は、いかにもヌルく、テツガクっぽくない印象を与えるかもしれない。哲学はもっとコンゲンテキでなくちゃ。疑いの泥沼の中で前のめりに死んでいくような。……だから、これってヤンキーなんだってば。伊勢田本は、こうしたロマン主義的な哲学クリシェをゆっくりとだが確実に破壊していく真のラディカリズムに貫かれている。

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