短短小説

第16回 花粉症

ちくま文庫のロング&ベストセラー『うれしい悲鳴をあげてくれ』の著者であり、作詞家・音楽プロデューサーのいしわたり淳治による書き下ろし超短編小説の連載企画!!

 会社まであと数十メートルというところで、永野美紀は人気のない路地に入ってバッグから手鏡を取り出した。今日からメイクも服も春仕様にがらりと変えた。大丈夫だろうか。何度も顔の角度を変えながら瞬きを繰り返し、前髪に触り、リップを塗り直して、手鏡を仕舞った。振り返ると後輩の女子社員が微笑んでいた。
「美紀さん、おはようございます!」
「……おはよう」
「今日、なんか雰囲気違いますね! すっごく春っぽい!」
「そう?」
「とっても素敵です! 明るい色の服、絶対もっと着た方がいいですよ!」
「ふふふ。ありがとう」
両手でピンク色のコートの襟を立ててウィンクをした。
「美紀さんって、モノトーンの服しか着ないのかと思ってました」
「いやー、そういうつもりはないんだけどね」
美紀は四十歳で独身、もう十年も恋人がいない。若者に人気の安くてお洒落なインテリアショップの製品企画部に勤めている。周りの社員はいわゆるリア充のキラキラした若い女子ばかりで、職場で男性との出会いはほとんどない。それなのに、皆が三十歳前に寿退社していくから不思議だ。
「流石だなあ。そのコート、私だったら難しくて着られないです。ホント、センスいい人って、うらやましいです」
「そんなことないよ。服なんて勇気、勇気。着ちゃったもん勝ちなんだから」
昔は給料のすべてを服につぎ込むこともあったが、十年前の最後の失恋を機にもうこのまま一生独身かもしれないという不安に取り憑かれて以来、すっかり貯金が趣味になってしまった。今では流行に疎くなり、モノトーンのベーシックな服ばかりになってしまった。
「その赤い靴、どこで買ったんですか?」
「どこだっけー。忘れちゃった」
本当は忘れてなどいない。今日の服はコートも、カットソーも、パンツも、ベルトも、バッグもすべて原宿にある若者向けのセレクトショップでマネキン買いしたものだ。
「いいよねー、この靴。私も一目惚れしちゃって」
「見つけたら、私も真似していいですか」
「もちろん! じゃあね」
エレベーターに乗り込みながら、あの店にだけは行きませんようにと心の中で祈った。

社内では皆が美紀の変貌ぶりに驚きの声をあげた。
「わあ、髪切りました?」
「明るい服、似合うじゃないですか!」
「メイク変えました?」
「あっ! そのバッグ、私も欲しかったやつ! どこで買いました?」
「ネイル、可愛い!」
褒められるたびに笑顔になる。明るい格好は気分まで明るくするのかもしれない。もう二度とモノトーンなんか着るもんか。しかし、家のクローゼットを想像してすぐに憂鬱な気分になった。モノトーンを省いたら、ほとんど着る服がない。
「もしかして美紀さん、彼氏でも出来ました?」
隣の席の小沢梨紗が美紀の不意をついて耳元で囁いた。
「えっ……? びえーっくしゅん!」
びっくりしてくしゃみが出た。
「なんか急に雰囲気変わったから、そうなのかなーと思って」
「違うよ。びぇーっくしゅん!」
「ホントかなあー」
「やめてよ、そんな話。びえーっくしゅん!」
「花粉症ですか?」
「そうなの。ここ数年ひどくて。今年は平気かなと思ってたんだけど、今日からとうとう始まっちゃったみたい」
「マスクありますけど、します?」
「ありがとう。びぇーっくしゅん!」
マスクを掛けて手鏡を覗くと溜め息が出た。せっかくのメイクがほとんど隠れてしまった。またこれだ。春になると今年こそはちゃんとお洒落をして、新しい恋を見つけようと決意するのだが、このマスクのせいですぐに手抜きメイクに戻って、いつもの楽で地味な服に戻ってしまうのだった。
「よかったら、飲み薬もありますけど」
「あ、それは大丈夫。ありがとう」
「いつでも言って下さいね。私の彼、医者なんで、いい薬持ってるんです」
「……梨紗ちゃんの彼氏、医者なの?」
「ええ。まあ」
「どこで知り合うの? そんな人と」
「まあ普通に。知り合いの紹介とかですけど」
まずどういう知り合いと知り合えば医者と知り合えるのか。長い間恋を休んでいたせいで見当もつかない。お洒落な店に服を買いに行くために、まずどこで服を買って着たらいいのか分からない感覚と似ている気がした。
「ふーん。びえーっくしゅん!」
素っ気ない返事とくしゃみをひとつして、美紀はまたパソコンをたたき始めた。恋人がいない期間が長くなるにつれてどんどん恋愛の話が苦手になっていく。いつからか変なプライドが生まれて、自分は恋人がいないのではなく、作らないのだという態度を無意識でとるようになっていた。こんな時、自然な感じで「私にも誰か紹介してよー」みたいな言葉が言えたらどんなに楽だろう。メイクや服をいくら変えたところで、この面倒な性格を変えなければ、どうにもならない。それはもう痛いくらいに分かっていた。
「……ねえ、梨紗ちゃん」
「はい?」
今日から私は変わると決めたはずだ。頑張れ、私。心の中で叫んだ。お洒落も恋も大切なのは一歩踏み出す勇気だろう。
「あの……」
「どうしました?」
自然に言うべきセリフが喉元に引っかかって、不自然な間が出来てしまった。
「あの、今度……、ひえっ、ひえっ、誰か……、びえーっくしゅゅん!」
ついてない。今度はくしゃみが止まらない。
「びえーっくしゅん! ……誰かいい人……びえーっくしゅん! 紹介……びえーっくしゅん! して……よ」
「えっ? えっ?」
梨紗が笑って聞き返した。
「いや……何でもない! 忘れて。びえーっくしゅん! ちょっと、トイレに……びえーっくしゅん!」
暑い。恥ずかしさで変な汗が止まらない。今すぐこの場から消えてしまいたかった。美紀が立ち上がると、梨紗が手を摑んで引き止めた。
「じゃあ、今晩って空いてます?」
「えっ?」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。きょとんとしていると、梨紗はスマホをいじりながら話し始めた。
「今晩、私の彼と、彼の友達と三人でご飯食べに行くんです」
「ふーん」
「彼の幼なじみで、四十歳で経営コンサルタントの会社をやってる人なんですけど、バリバリ仕事も出来て結構イケメンですよ。もし良かったら美紀さんも行きません?」
経営コンサルタント。仕事がバリバリ出来る。そんな人とはまるで話が合う予感がしない。
「これ。その人のインスタなんですけど」
梨紗がスマホの画面を見せた。ハーフ顔の美形の男性がびしっと細身のスーツを着こなして微笑んでいた。
「この人、最近、離婚したらしいんです」
結婚も、離婚も経験しているなんて。同じ時間を生きて来たのに、何から何まで経験値が違いすぎる。何だか自分が嫌になった。
「ふーん」
「まあ、あんま興味ないですかね?」
梨紗がスマホを置いて机に向かった。駄目だ。これではいつもと一緒だ。慌てて両手でオッケーサインを作って大げさに喜んだ。
「大丈夫! 空いてるよ! 今晩、行こう!」
「あ、じゃあ彼氏に伝えておきますねー」
私のことをどう説明するのだろう。昨日までの自分と、今日の自分はまったく違うのだが、彼女はそこを分かってくれているのだろうか。


「紹介しますね。こちら、私の彼の友人で、ジョーさん」
梨紗に何も聞かされずに連れて来られたが、ミシュランでも星を取る高級フランス料理店だった。こんな店なら、もっとシックな服の方が良かったかもしれない。慣れない若作りの服装が少し恥ずかしくなった。
「ハーイ。はじめまして」
ジョーが手を差し出した。低いダンディな声だ。
「はじめまして……永野です、永野美紀です」
大きくて逞しい手だった。きっと、これまでにたくさんの企業の社長と握手をして、その度に相手に大きな安心感を与えて来たのだろう。ジョーは美紀のために椅子を引いてくれた。
「今日はコースを頼んであるので、飲み物だけ選びましょうか。私はワインにしますが、美紀さんはいかがなさいますか」
いきなり下の名前で呼ばれてどきっとした。
「……じゃあ、私もワインを頂きます」
酒はあまり得意ではないが、今日は飲んだ方が喋れるような気がした。
「素敵なお店ですね……ひえーっくしゅん!」
せめてくしゃみくらいは止まって欲しいが、もはや自分ではどうしようもない。梨紗に飲み薬ももらっておけばよかった。大きなくしゃみが出る度に静かな店内のどこかから咳払いが聞こえた。
ジョーが指先でソムリエを呼んだ。笑ったり、首をすくめたりしながら、楽しそうにワインを選んでいる。言動のすべてがいちいちスマートで見蕩れてしまう。
「では、2003年のボルドーにしましょう」
貯金が趣味になって以来、外食が久しぶりだというのに、高級店の張りつめた雰囲気とジョーの完璧な立ち居振る舞いが、さらに煽る。
「ジョーさんって、最近はどんな仕事してるんですか?」
梨紗が能天気に訊ねた。空っぽな質問は若さの特権だなと思った。
「最近、中国企業が日本企業を買収するケースが多くてね──」
彼の話を理解出来たのは最初の数十秒だけだった。質問をした梨紗自身も途中から相槌を打つのにも飽きて自分のネイルをぼうっと見ている。男二人が難しいビジネス英語を使って話をしている。
「こちら、前菜のオマール海老のムースでございます」
料理が出て来て少しほっとした。ようやく愛想笑い以外にやることが出来た。スプーンで一口掬って、あまりの美味しさに驚いた。でも、こんなに緊張していて、こんなに鼻が詰まっているのだから、実際はもっと美味しいに違いない。目を閉じて、頭の中で三割増に補正して味わった。
「……美紀さん! 大丈夫ですか?」
「ん……? 何が?」
目を開けると、梨紗が顔をしかめて覗き込んでいた。
「顔、真っ赤ですよ」
「え? あ……そう? お酒飲むの久しぶりだから……」
頰に手を当てると自分でもその熱さに驚いた。手持ち無沙汰でワインを飲み過ぎたようだ。
「いや。違うよ。それ、たぶんアレルギーだね」
梨紗の彼氏が一瞬で医者の顔になって、冷たい口調で告げた。
「……アレルギー?」
「そう。エビとか、カニとか、甲殻類のアレルギー持ってない?」
「いいえ?」
思い返してみても、これまでにエビを食べて体調を崩したことなど一度もない。
「アレルギーってさ、それまでは大丈夫だったのに、ある日突然発症するんだよ。ほら、バケツの喩え話、聞いたことあるでしょ? 一回、病院でちゃんと調べた方が良いよ」
「はあ……」
問いつめられているうちにだんだん喉の奥が痒くなって来た。口から手を突っ込んで思い切り掻き毟りたい衝動が込み上げて来る。気道が狭くなっているせいだろうか。心なしか呼吸も苦しい。
「顔。じん麻疹が出てるよ。つらいでしょ。帰って休んだ方がいいよ」
ここまで医者に言われると、もはや残るという選択肢はない気がした。
「すみません、せっかく呼んでもらったのに……」
「気にしないで下さい。お大事に。また今度あらためてお会いしましょう」
別れ際、ジョーがハグをしてくれた。香水のいい匂いがした。男の人に抱きしめられたのはどれくらいぶりだろう。胸がときめいた。

数日後、美紀は病院のアレルギー科にいた。
「永野さーん、永野美紀さん、中にお入りください」
「はい、びえーっくしゅん!」
花粉症患者たちで混み合う待合室はくしゃみと鼻をかむ音が絶え間なく響いていた。ここでだけはどんなにくしゃみが出ても恥ずかしくはない。
「はい、永野さん。検査の結果が出ましたよ」
医者が一枚の紙を差し出した。
「まず表の見方を教えますね。この縦の欄がアレルギーの項目。で、こっちの横の桝目がそのアレルギーの度合い。右に行くほど、強いっていうことね」
「はい。びえーっくしゅん!」
「これを見ると、あなたの場合、いちばん気をつけるのは……猫ですね。なるべくなら近寄らないほうがいいですよ」
「あ、そうですか……」
たしかに言われてみれば猫を飼っている家に行くと目が痒かった気がする。
「自分では気づいてなかった?」
「まあ……はい。びえーっくしゅん!」
「アレルギーは自分では気づかないものも多いんですよ。だけど、蕎麦やピーナッツのアレルギーなんかは命に関わることもありますからね。こういう検査を受けておくことは大事ですよ」
その通りだと思った。ちゃんと検査を受けていれば、事前にエビを避けられて、あの夜のジョーとの食事会をもっと意味のあるものに出来ていたかもしれないのだから。
「で、他には……。うん、大丈夫。特にないですね。まあ、じゃあ猫だけ気をつけて。お大事に」
医者は椅子を忙しそうに回転させて背を向け、カルテを看護師に渡した。
「えっ? いやいやいや……!」
「はい? どうかしました?」
医者が振り返った。
「……エビ! エビとか、カニは?」
「エビもカニも、大丈夫ですよ。アレルギーはないです」
「そんな……。びえーっくしゅん! じゃあ、これは? びえーっくしゅん! ほら、これ! スギは?」
いつもより大げさにくしゃみをして声を荒げた。
「花粉症ですか?」
「はい。三年くらい前から」
「いや……でもスギのアレルギーもないですね」
「そんな……。じゃあこれは何なんですか? びえーっくしゅん! これは」
「そう言われてもねえ……」
医者は壁の時計を見上げ、面倒くさそうに頭を搔いた。

「あれ? 今日美紀さんは?」
書類を届けに来た女子社員が、隣の席の梨紗に訊ねた。
「あ、病院に寄ってから来るんだって。あれ? どうしたの? あんた今日やけに服、気合い入ってない?」
「そんなことないよ。いつもと一緒だよ」
「どうせまた合コンでしょ? いつもみたいに人に仕事押し付けて速攻帰る気でしょ?」
「違う、違う、違う。っていうかさ、ねえ、ねえ……」
女子社員は話を逸らすように、にやにやしながら空いた椅子に腰を下ろした。
「ねえ、ねえ、最近の美紀さんの服。やばくない?」
「うん。服だけじゃなくメイクもね。子供の塗り絵って感じ。ははは」
「髪型もねえ。何あれ? 田舎の中学生みたい」
二人が話し始めると、他の社員も集まって来た。
「何、もしかしてまた美紀さんの話?」
「そう。あのね、私こないだ原宿行ったら、美紀さんと同じ格好のマネキ……」
「あっ! 私も見た!」
「私も!」
「だよねー。やっぱりマネキン買いなんだよね」
「あ、知らなかった? 美紀さんの春服は、あの店で今年マネキン買いしたやつと、去年マネキン買いしたやつと、一昨年マネキン買いしたやつの、ローテーション。自分では合わせられないからコーディネートはいつも一緒」
「ははは。マジでー」
「そっか! そう言えばあの服、去年も着てたかも」
「だから、ダサいのかー」
「流行も分からなくて、よくこの会社で働いてられるよね」
「ベテランだからねー。誰も言えないよ、それは」
「今年はいつまで続くかな。美紀さんの春服キャンペーン」
「まあ四月いっぱいってとこじゃない? もうすぐまた死神みたいなモノトーンに戻るでしょ」
「あ、そういえばこないだ、美紀さんから誰かいい人紹介してって言われてさ」
「えーっ! 意外! そんなこと言うんだ!」
「そう。で、面白いから紹介してみたのよ。ハーフの敏腕イケメン経営コンサルタント」
「わお。超ハイスペック!」
「で? で?」
「どうなったの? 超興味ある!」
「んー、なんか、じん麻疹が出て、すぐ帰った。ははは。慣れないことして体が拒否反応起こしたのかも」
皆が手を叩いて笑っている。
「こんなに噂されちゃって、今頃くしゃみしてたりして」
「いや、くしゃみしてるでしょ。すごい花粉症だもん、あの人」
「ひえーっくしゅん! ひえーっくしゅん!」
「あれ? あんたって花粉症だったっけ? いい薬あるよ。飲む? 合コンでくしゃみ止まらなかったら、キツいっしょ」
梨紗が薬をデスクの引き出しから出した。
「ちょっと、やめてよ。私、今日、合コンじゃないってば!」
人差し指を口に当てて睨みつけた。
「何言ってんの。バレバレだよ。はい、薬」
「……ありがと。ひえーっくしゅん! でも変だなあ……」
「ん? どうしたの」
「このあいだ検査受けたら、私、スギのアレルギーはなかったのよね……」
今日も誰かがオフィスのどこかで誰かの噂話をして笑っている。

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