ちくま新書

日本回帰が意味するものは?

ナショナリズムとデザイン

4月のちくま新書より冒頭を公開します。五十嵐太郎さん『日本建築入門』の一部を立ち読みすることができます。

近代と伝統

 伝統的なもの、あるいは日本らしさが語られるとき、しばしば近代以前の状況が参照されるのはなぜか。それは現代とは違い、昔は地域や国境を超えて、文化や技術が簡単に、そして自由に行き交うことができなかったからだ。
 したがって、それぞれの場所では必然的に、気候や環境に対応しながら、木や石など、どのような自然素材を入手できるかという条件に従い、人々の慣習も踏まえて、固有の建築がつくられていた。それが近代以降に伝統と呼ばれるようになったものである。
 おそらく、外部を知らない、すなわち異国との比較がなければ、当事者は自らの建築を伝統的なものだと強く思わなかったはずだ。国家という意識も希薄だったに違いない。つまり、国際的に同じ建築をつくろうというモダニズムの運動が起きたことで、逆説的に場所性が発見される。
 近代建築は、アメリカにおいて「インターナショナル・スタイル」という風にも命名されたように、鉄とガラスとコンクリートという同じ素材と構造に基づく、共通のデザインによって世界を覆うことを志向していた。
 しかし、そう簡単に世界は同じにならなかった。言うまでもなく、各地域には、暑い寒い、雨がよく降る、降らない、湿度がある、乾燥しているといった様々な気象の条件が異なり、生活慣習も違うから、同じデザインを導入しても齟齬が生じる。近代においてはまだ十分な空調設備も整っていなかったし、省エネが求められる時代に、エアコンをつければすべて解決というわけにもいかないだろう。また日本では、どれだけ近代化しても、室内において靴をぬぐ習慣は根強く、住居のみならず、小学校のような公共施設や一部の飲食店でも同様である。ここまで残れば、将来変わることはないだろう。
 世界を均質化しようとするモダニズムを批判的に乗り越えようとする試みは、一九六〇年代から目立つようになった。建築の世界では、こうした運動を総称してポストモダンと呼ぶ。その手がかりのひとつとなったのが、地域性や歴史性、すなわち伝統である。日本の建築界でも、近代に議論された最も重要なテーマだった。
 もっとも、一九六〇年代を待たずとも、日本は近代を受容した早い時期から、この問題に直面していた。ヨーロッパでは、長い期間にわたって、古典主義やゴシックなど、石や瓦による組積造の様式建築を発達させていたが、この伝統と対決し、否定することによってモダニズムが勃興した。
 一方、日本では江戸時代の鎖国を解いた後、明治時代の文明開化を迎えると、まず西洋の様式建築を導入する。大学ではアカデミックな教育を行う一方、大工は見よう見まねで新しい意匠を模倣し、後者は擬洋風と呼ばれた。そしてある程度、吸収したところで、海の向こうで近代建築が登場し、今度はモダニズムを輸入することになった。すなわち、日本にとって様式建築とモダニズムは対立するものではない。いずれも舶来のデザインだった。伝統との断絶のポイントが違う。
 様式建築もモダニズムも、日本における木造の伝統建築とは異なる材料から生まれたものである。だが、西洋の列強と対等の姿を顕示しようとした日本は、積極的にこれらを模倣することに努めた。その過程において、日本とは何かというアイデンティティの問題にぶちあたる。
 一生懸命に西洋をモデルに追いつこうとして、ふと立ち止まったときに疑問が生じる。お雇い外国人の雇用や海外留学によって、工学的な技術は吸収することはできたが、建築は純粋なテクノロジーの産物ではない。誰もが即物的なただの箱で満足するなら簡単だが、デザインはときとして文化を表現し、象徴的な意味を担う。そのとき西洋の技術体系を移植しながら、デザインも同じで良いのかが問われる。われわれの生活は、ギリシアの一地方やパリの周辺で誕生した建築の様式と関係ないからだ。
 そもそも明治時代に建築学科を創設したとき、西洋建築史は教育のプログラムに入っていたが、日本建築史はまだ学問として確立していなかった。ルネサンスやゴシックなどの様式は、過去のものではなく、そのまま設計に活用できるデザインのネタだった。当時、イギリスを訪れた辰野金吾が、日本建築の歴史を質問され、返答に困ったという有名なエピソードがある。その後、伊東忠太らの研究が嚆矢となって、日本建築史の体系的な調査に着手するようになった。
 技術の面においても一筋縄ではいかない。日本が地震国であるからだ。一八九一年に濃尾地震が発生し、.瓦造の建築が壊滅的な被害を受けた。つまり、西洋の構造形式は、地震がまったく起きないような場所には向いているかもしれないが、日本ではうまくいかない。そこから必要に迫られて、日本では耐震の研究が飛躍的に進化していく。

新建築圏を創造せんがために

 ここで日本において、自覚的な意識をもった最初の近代建築の運動をみてみたい。
  一九二〇年、東京大学を卒業した堀口捨己、山田守らが、分離派建築会を結成した。彼らの以下の宣言文が有名である。「我々は起つ。過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために」。
 後に、このメンバーが中心になって一九三二年に刊行された分厚いアンソロジー本が『建築様式論叢』(六文館)だった。日本的なものをめぐって熱い議論がなされている。巻頭と巻末を飾るのは、いずれも編者をつとめた堀口の論文であり、「茶室の思想的背景と其構成」と「現代建築に表れたる日本趣味について」だった。彼は一九二〇年代に遊学の途中でギリシアに赴き、パルテノン神殿と対峙したとき、学校で習ったものとは根本的に異なる実在感に打ちのめされ、アジアに生まれた自分が簡単に模倣できるようなものではないと後に告白している。
 堀口は、こうした強烈な古典主義の体験を経て、日本的なものに回帰し、建築家として活動するかたわら、桂離宮など、日本の数寄屋や茶室の研究に向かう。
 明治の初頭には忘れかけられていた法隆寺は、日本最初の建築史家である伊東忠太が論じたことによって、当時、すでに重要な古建築だと認識されていた。伊東はシルクロードでつながるギリシアの柱の膨らみとの類似を指摘したように、建築のチャンピオンであるパルテノン神殿と法隆寺をアクロバティックに接続させた。かくして仏教建築の系譜は、モニュメンタルなデザインとみなされ、日本的なものを表現する公共や国立の施設において、しばしば参照されるようになった。
 しかし、堀口は違う回路を探求している。今でこそ、数寄屋や茶室は、当たり前のように日本の重要な伝統建築だと認識されているが、彼は早い段階から建築家の眼を通して、その価値に気づいていた。彼によれば、茶室は単純な工作物だが、「これを造形的な美の方向から見るとき極めて高い程度に発達した美しさの完成を見る事が出来る」。また非対称な茶室はパルテノンとは異なる特性をもち、その影響によって「我国の一般住宅が徒な記念性と無意味な装飾から免れている」という。堀口は巻頭の論文を、機能と美を同時に考慮している茶室は、「今後の住宅建築にも大きい示唆を與へる」と結ぶ。また吉田五十八も、一九二五年のヨーロッパ旅行を契機に日本に目を向け、近代における新興数寄屋の確立にとりくんだ

何を日本建築のモデルにするのか

 伝統論が語られるとき、何を日本建築のモデルにするのかは大きな軸となる。法隆寺=パルテノンなのか、茶室なのか。あるいは、伊勢神宮を代表とする日本固有の神社建築なのか、大陸から輸入され装飾的な要素が多い寺院建築なのか。
  ブルーノ・タウトが論じたように、桂離宮=天皇の系譜なのか、日光東照宮=将軍の系譜なのか。
 これらはしばしば二項対立の構図によって議論される。しかも、ときとして政治的なイデオロギーがつきまとう。神仏分離令や天皇制といった社会背景は、デザインの価値判断にも影響を与えるだろう。実際、建築の専門家から靖国神社の神門のすっきりしたデザインをモダニズムと結びつけながら、日本建築の真髄を表現していると、熱狂的に賞賛する言説が登場した。むろん、これが本当に秀逸な建築なら良いのだが、戦後はまったく評価されず、ほとんど無視されている。筆者も特筆すべき作品だとは思えない。ゆえに、同じ建築に対して、これほど評価が変わるのかと驚かされる。
 なるほど、現在のわれわれの見方にも、バイアスがかかっているという批判が想定される。当然、それも疑うべきだ。もう一度、靖国の神門が高く評価される時代を迎えるかもしれない。したがって、伝統論については自明のこととせず、少なくとも絶えず自己批判しながら建築の思考を継続すべきだろう。
 近年、「江戸しぐさ」のように、歴史学的に実証できない、ありもしない伝統が話題になり、現場の教育にまで影響を及ぼそうとしている。ここでも現代から投射されたイデオロギーが、理想的な過去が存在していたかのように錯覚させる。歴史の改竄だ。
 いずれにしろ、時代や状況によって、モノの評価は変わることが起こりうる。井上章一はその著作において、桂離宮や法隆寺をめぐる言説の変遷を通じて、いかに専門家であろうとも、時代の枠組から影響を受けていることを示していた。逆に言えば、評価の言説を検証していくことによって、時代の精神史も浮かびあがる。
 戦後は、一九五〇年代に建築雑誌を縄文弥生の論争が賑わせた。洗練された弥生か、土着的な縄文か。やはり、二項対立だが、もはや各時代から具体的な建築を参照しにくい。
 つまり、実際にどのような弥生建築があったのかではなく、むしろ両時代の土器のイメージから言説がつむぎ出されている。考古学的な研究とも距離を置き、観念的な伝統論を鼓舞する概念と言えるかもしれない。また伊勢神宮/桂離宮/天皇という構図とは違って、弥生も縄文も、あまり直接的な政治や宗教の体制とは結びつかない。つまり、伝統論の脱政治化がなされている。
 もっとも、厳密に当時の文脈で読み返すと、弥生が貴族的なものとされ、縄文は民衆的なものとみなされていた。詳しくは、本書の5章から6章において述べるが、アートでは岡本太郎が縄文土器の美を「発見」し、その後、建築では白井晟一が「縄文的なるもの」という論考を発表したことで注目されるようになった。 
 おそらく、一九五〇年代は敗戦の後、新しく主役になった民衆のエネルギーが強く感じられる時代だったにちがいない。このとき伝統論において重要な位置を占める丹下健三は、洗練されたモダニズムのデザインによって弥生的とみなされていたが、こうした潮流を踏まえて、縄文的なパワーも取り込み、両者を統合するような建築に舵をきっていく。

日本回帰する新国立競技場問題

 ところで、迷走をきわめた新国立競技場の.末にも、日本的なものの影がつきまとっていた。国際コンペによって、ザハ・ハディドによる前衛的なデザイン案が選ばれると、まず巨大な建築が神宮外苑という敷地にそぐわないといった問題が指摘された。これを唱えた槇文彦は、やがてオールジャパンでこのプロジェクトを推進すべきだと発言している。
 膨大な建設費が明らかになると、今度は世論が炎上し、異国からの建築家ザハ・ハディドに対するメディアのバッシングが連日のように続き、ついには安倍首相による白紙撤回の「英断」に至る。その後、建築家サイドが様々な減額案のメニューを提示したにもかかわらず、発注主の日本スポーツ振興センター(JSC)がまったくこれを聞き入れず、競技場以外の過大な用途もてんこ盛りにしたプログラムのまま設計を継続させたことが判明している。
 国民的な関心事となった新国立競技場の仕切り直しのコンペは、コストを抑えるべく、ゼネコンと組むことを参加の条件とするデザイン・ビルド形式が採用され、ザハと日建設計はエントリーしようと試みたものの、パートナーが見つからず、再チャレンジを断念させられた。白紙撤回の理由がお金の問題だとすれば、そもそも減額案を検討していたザハが再設計するのがもっとも合理的だろう。
 しかも、すでにザハと日建設計は、法規、設備、客席の最適なレイアウト、環境の諸条件をクリアすべく、多くのスタッフが二年間取り組み、膨大な図面を仕上げ、着工寸前の状態になっており、多くのノウハウを蓄積していた。にもかかわらず、キャンセルされたのである。再コンペのために、工期が短縮すれば、東日本大震災の復興やオリンピックの特需によって、ただでさえ資材や人手が不足し、建設費が高騰している状況だけに、もっと余計にコストが上乗せされる。
 日本の国内では、ザハさえ解任すれば、問題は解決するという「空気」が醸成されていた。しかし、海外から見たとき、この一連のプロセスはほとんど論理的に説明がつかない。とすれば、いわばザハは問題のシンボルとして排斥されたということになる。魔女狩りである。
 その後、仕切り直しのコンペが発表されたとき、デザインの新しい条件が追加された。日本らしさを表現すること、そして木材を使うことである。また国際コンペとされたにもかかわらず、日本語で提出することになっていた。結果的に、二人の日本人建築家だけがエントリーすることができ、応募はわずか二案だった。世界から四六案が集まった最初のコンペでさえ、応募資格のハードルが高すぎて、競争原理が働かず、閉鎖的だと批判されていたことを考えると、二案という応募はいかに少ないかがわかるだろう。明記はされていないものの、仕切り直しコンペの体制は、実質的に外国人の参加を制限しようとしたと思われても仕方ない

外国的なものの排除

 もっとも、過去にも外国的なものの排除は起きている。本書の最終章で論じるが、例えば、かつて明治末に国会議事堂のコンペの機運が盛り上がったとき、建築学会は日本人による国家建築であるべきとし、外国人を参加させないことを要請している。しかし、結局日本人によって実現したプロジェクトに対しても批判は多く、中村鎮は「新議院建築の批判」という論考を『建築様式論叢』に寄稿した。
 彼によれば、結局、国会議事堂のデザインは西洋における様式主義から新しい動向への過渡的な傾向を反映したものであり、日本の緯度や気候などの環境に対応する積極的な合理的解決を企画したものではない。ゆえに、国民の建築的表現として認識することができない。むしろ、過去の日本の木造の形式から誘導し、それを変容させながら、「日本人の親しみのある日本式を創始する」べきだったという。すなわち、国家プロジェクトを契機に、建築における日本らしさが問われることになった。
 また関東大震災後に実施された震災記念堂コンペでは、一等案が西洋風だったことから撤回に追い込まれている。フランスの建築のパクリではないかという批判もあった。その結果、審査員の伊東忠太が設計することになった。
完成した両国の震災記念堂(一九三〇、現・東京都慰霊堂)は、入母屋や唐破風の屋根、三重の屋根をもつ納骨塔、城壁の石垣など、伝統的な要素をミックスしたデザインである。
 この変更は、後にこう指摘された。「もし当選図案がそのまま実施されていたら、をよそ震災記念堂の名にふさはしからぬ欧羅巴趣味のものとなって、年毎の震災記念日に詣でても、心から死者の冥福を祈るには、あまり適切のものとはならなかったであらう」(岸田日出刀『建築学者 伊東忠太』乾元社、一九四五年)。
そして戦時体勢のもとで鹿鳴館が解体されたときも、外国人が設計した国辱的な建築だとみなされていた

縄文vs弥生の反復

 ともあれ、仕切り直しコンペでは、厳しい条件のなかで、隈研吾と伊東豊雄が名乗りをあげ、各自の個性を組み込んだデザインが提示された。
 隈は、『反オブジェクト』(筑摩書房、二〇〇〇年)など、現代的な解釈による日本建築論を執筆しながら、馬頭町広重美術館(二〇〇〇、現・那珂川町馬頭広重美術館)などを通じて、表層において細かいルーバーを反復したり、ヴォリュームをミニマルな要素に分解するなど、環境に対する圧迫感を減らす手法を洗練させた。彼の提案も、スタジアムから水平の庇をのばし、軒裏に縦格子を設け、日本の古建築の垂木を連想させる意匠である。
 一方、伊東は、せんだいメディテーク(二〇〇〇)など、実験的な構造を追求し、象徴的かつ有機的な形態を進化させてきた。コンペ案は、竹中工務店が開発し大阪木材仲買会館(二〇一三)で用いられた耐火集成材の燃エンウッドを使い、巨大な木造の列柱が並ぶ新機軸のデザインである。そして縄文時代の三内丸山遺跡や諏訪大社の象徴的な柱になぞらえていた。
 前述したように、日本の建築界では、一九五〇年代に白井晟一が力強い縄文的なものの概念を提唱し、洗練された弥生的なものとの対比から伝統論争が白熱していた。とすれば、新国立競技場のコンペでは、伊東が縄文を参照しており、隈のデザインは新しい弥生になるだろう。当時、弥生的とみなされた丹下健三が設計した香川県庁舎(一九五八)は、各階ベランダの下の小梁において、垂木をモチーフにした形態を採用している。隈がスタジアムで提案した縦格子は、これをさらに繊細にしたものと言えるだろう。
 コンペの結果、施工やコスト面がとくに評価され、隈が設計者に選ばれたが、ネット上の人気投票でも優位だった。現代の日本では、巨大なスタジアムでさえ、繊細さ、優美さがあるやさしいデザインが望まれているのだろう。なお、一九六四年の東京オリンピックのときに建設された代々木の国立競技場は丹下が設計しており、やはり日本的なデザインの実現が評価されていた。したがって、半世紀後のオリンピックにおいても日本的なものをめぐるテーマが蘇ったのである。
 ところで、もともとザハを発掘したのは、磯崎新だった。一九八二年、香港のザ・ピークのコンペにおいて、いったん落選に分類されたプロジェクトの山から、審査員の磯崎が彼女の案を救いだし、最優秀賞に選んだのである。突如、現れた無名の建築家――それがザハの衝撃のデビューだった。夥しく錯綜する線。そして激しく砕け散った建築の断片。革命的なデザインゆえに、当初はなかなか実現することがなかったが、その後、コンピュータを大々的に活用するようになり、やがてグローバリズムの波にのって、二一世紀には世界中に実施プロジェクトを抱えるようになった。ソウルの東大門デザインプラザ(二〇一四)など、一度見たら忘れられない強烈な個性をもった造形は、各地のランドマークになっている。既存の場所になじむというよりは、建築自体が新しい場所性をつくるというべきものだ。ということは、東京オリンピックの新国立競技場でも、敷地が湾岸なら問題にならなかっただろうが、神宮外苑という立地において齟齬が生じたといえるだろう。
 磯崎新の著作『建築における「日本的なもの」』(新潮社、二〇〇三年)は、これぞ伝統的な美という日本回帰の礼讃ものではない。むしろ、こうした言説に対して批判的なまなざしを向けている。だが、興味深いのは、彼は東大寺の再建を指揮した重源に共感を示し、革命の建築だとみなしていることだ。なるほど、前の時代と断絶するような、純粋幾何学への傾倒や理念的なデザインは、重源と磯崎の二人に共通する。また中世において中国大陸の新しい様式とテクノロジーを直輸入して建設された東大寺の大仏様は、島国ゆえの日本的なものの洗練=和様化とは異質であり、建築史においても日本的ではない異形ものと位置づけられている。
 現代であれば、コンピュータを駆使した設計や施工と連動するザハの建築がそうだろう。グローバル化により、世界地図は大きく変容し、旧来の島国が成立しなくなる。まさに二一世紀が革命期を迎えているとすれば、この本の現代的な意味も、そこにあったはずだ。しかし、二〇一五年の日本はこれを拒絶した。内部に閉じこもり、平安時代のような和様化を選んだ。

現代建築における日本趣味

 歴史を振り返ると、日本的なデザインというテーマは繰り返し召喚されている。海外からの視線を意識するオリンピックや万博、あるいは大型の国家プロジェクトや皇居造営など、建築界だけではなく、社会からも高い関心が向けられる場合に、しばしばこうした事態が起きている。したがって、本書では、こうした社会性が強いトピックを中心にとりあげる。
 おそらく、本来はグローバルな都市間競争を意識して、国際コンペを実施したはずの新国立競技場も、結局はこの問題に回収された。ただし、今回は仕切り直しコンペにおいて、やや唐突に日本らしさや木材の使用が要項として追加され、締切までの期間があまりにも短かったことや、ほとんどの建築家が参加できず、蚊帳の外に置かれていたことから、日本的なものとは何かがまともに議論されないまま、ずるずると進行している。
 例えば、新国立競技場のコンペが終わった後、自民党のオリンピック大会実施本部はさらに日本らしさを表現すべく、コストが増えたとしても、観客席を木製の椅子にすることを政府に要請した。しかし、そもそも日本人に椅子を使う文化はなく、洋風の導入とともに近代以降に広がったものである。また近代以前から椅子式だった文化圏では、基本的に椅子は木製だった。つまり、木製の椅子が日本らしいという考えは相当に馬鹿げている。
 だが、かつてこうした日本趣味の台頭に対して、建築家は熱い議論を闘わせていた。また、それが強靭な思考を鍛え、時代を前に進めていく、歴史の原動力にもなっていた。そこで再び、分離派の『建築様式論叢』から重要なテキストをとりあげよう。編者の堀口捨己が、茶室論とは別に寄稿したもうひとつの論文「現代建築に表れたる日本趣味について」である。
 この論文は、本書の第3章でも触れている一九三〇年代に顕著になった日本趣味の傾向を批判したものである。堀口は、京都美術館、軍人会館(後の九段会館)、日本生命館、国立博物館のコンペにおいて、「日本趣味」や「東洋趣味」といった言葉が散見されるにもかかわらず、具体的な説明がなく、文面を読む限り、周囲の「環境に応じ」や「内容との調和を保つ」としか示されていないことを批判した。ただし、コンペの結果が満足だったと多くの審査員が書いていることから、彼は「過去の支那及日本にて完成された木造建築様式を鉄筋混凝土鐵骨構造にて模造する」ことが求められていたのではないかと推測する。こうした日本趣味の建築としては、ほかに歌舞伎座、伊東による震災記念堂や靖国神社遊就館なども、これに含まれるという。だが、材料や構造がまったく異なる過去の様式をそのまま、あるいは一部を模倣再現することに堀口は疑問を投げかける。
  ちなみに、こうした状況は近代建築において初めて発生したことではない。なぜなら、古代ギリシアの神殿は、もともと木造だったが、石造に変化したものである。実際、細部のデザインを見ると、明らかに木造の形式が由来と思われる形態が残っている。逆にゴシックの大聖堂は、究極の石造建築としてフランスで発達したが、イギリスに移植されると、天井面の分割パターンを木材で模倣するケースがあらわれた。形態の構造的な合理性は失われ、イメージだけが継承される。こうした本来の材料と形態のズレは、近代以前のイスラムや仏教の宗教建築でも生じている。
 つまり、日本の近代において木造のディテールを鉄筋コンクリートで模倣すること自体は、必ずしも特殊なデザインの手法ではない。それどころか、中国、北朝鮮、インドネシアなど、木造建築が主役だったアジア圏では、近代を迎え、西洋の建築が導入されると、日本と同様にアイデンティティの問題を抱え、コンクリートで木造のかたちを再現している。共通の課題なのだ。
 ただし、近代は国家のナショナリズムという意識が芽生え、それが社会の雰囲気を後押しすることにより日本趣味の建築が登場した。一方、堀口は合理主義的な立場を表明し、その視点から日本趣味の建築を考察すると、ほとんど形の問題であるという。ゆえに、形の美が問題となることから、美の分類を行う。まず知性/感覚によって捉えられる美。さらに功利の美(合目的)、組織の美(構造)、表現の美(積極的な意識)などの項目を挙げて、細分化された。彼によれば、日本趣味の建築は、形態と構造に矛盾が生じており、功利の美や組織の美とは相反する。そして表現の美を唯一に求めるために、現代建築の特性を失っているという。耐震や耐火を考慮すれば、鉄やコンクリートは最良の材料だが、それを生かした形態は、木造によって発展した過去の構造と同じではないからだ。
 現在、木造さえ使えば、日本らしいという考え方が広く共有されている。実際、新国立競技場の仕切り直しコンペにおいて、木材の使用を掲げたのも、そうした文脈を踏まえてのことだろう。また伊東や岸田は、大陸から伝来した仏教の寺院は不燃化のためにコンクリート化しても良いが、日本固有の神社の建築は木造のままであるべきだという論陣をはった。そして戦時下では、鉄を軍事用にまわすために、木造モダニズムが発展したり、竹筋コンクリートが提案されている。しかし、世界中で木造建築の伝統をもつ国は数多く存在するし、現代において大規模な木造建築を実現している事例も少なくない。つまり、木を使うのは日本だけのお家芸というのは、そうした世界を知らない、かなり狭いものの見方である。
 堀口は、社会的な環境との調和の問題からも、日本趣味の建築を攻撃した。「如何に王朝時代の服装が美しいと云っても現代人は着ていないし、如何に牛車が優美で高雅であると云っても人の乗るのは電車や自動車である」。これと同様に、木造の様式をとり入れた新しい構造の建築が、現代の東京に調和するとは考えられないという。それは、いわゆる「葬儀自動車」(霊柩車)や「フロックコートにチョンマゲ」のようなものだと指摘し、手厳しい。もっとも、堀口は、日本趣味なるものの要求を無下に反対するつもりではないと述べている。つまり、屋根や組物ではなく、材料上の好み、色彩上の好み、比例上の好み、調和や均整上の好みなどが具体化した日本趣味の建築は認めている。こうした部分の「好み」は、彼が重視する合目的性、すなわち構造や工学的な要請と背反する部分が非常に少ないからだ。「好み」への着目は、茶室や数寄屋を愛した堀口らしい語りである。
 なお、堀口は日本趣味批判をこう結ぶ。記念的な表現には社会的な意思表示が含まれている場合が多い。そして左翼ならば、闘争的な前衛表現が求められるかもしれないし、右翼ならば逆に、ことさらに古風が要求されるかもしれない。だが、それは商業広告として奇怪な建築をつくったり、流行のデザインを取り入れるのと同様、ある目的のために、建築を単に利用できる道具としてみなすものだ。おそらくナチスの建築などが、これに当たるだろう。しかし、彼によれば、これはもはや建築の問題と離れてしまう。

本書の構成について

 本書では、「日本」と「建築」の関係について考える。これまでに多くの日本建築論が書かれている。例えば、伊勢神宮や桂離宮など、有名な古建築の研究、あるいは日本的な概念をめぐる論考だ。が、ここでは東京オリンピックといった現代のトピックを起点とし、歴史を遡行しながら、過去の出来事に連鎖させていく。
 第1章と第2章は、オリンピックと万博を通じて、日本がどのような日本らしさを海外に見せようとしたのかを考察する。ここで重要な部位として浮上するのが、第3章で扱う「屋根」だ。続く4章は、二〇世紀半ばの建築界を賑わせた伝統論を再読する。具体的には、世界に羽ばたいたメタボリズムのメンバーの歴史解釈(第4章)、縄文弥生論争から発見された「民衆」の概念(5章)、そして建築界に影響を与えた岡本太郎の思想と作品(6章)である。また第7章は、白井晟一の原爆堂や大江宏の混在併存の思想を論じる。第8章は戦時下に焦点を当て、批評家の浜口隆一が到達した日本空間論を読む。ラストの第9章「皇居・宮殿」と第10章「国会議事堂」は、明治から昭和まで続く国家プロジェクトが、日本的なものという問題をどのように受け止めたのかを振り返る。ここから近代以降の日本建築論は始まった。
 むろん、先端的な建築家が伝統論争を活発に語り、モダニズムと歴史建築が地続きの意識をもっていた二〇世紀の半ばと違い、現代の建築界では、少なくとも表面上は決して日本的なるものへの関心が大きいとは言えない。
 では、日本らしさや日本的なものへの興味は完全に消えたのか。
 いや、むしろ近年は、一般社会を見渡すと、中国や韓国への反発から過剰に日本の優位性や正しさを語る言説が増殖し、戦後レジームからの脱却という名目で、この七〇年間に培ってきた基盤が崩され、敗戦前の精神が復活しようとしている。現代建築は目下、直接的にこれを意識しているわけではない。そして日本的なものを過剰に意識しなくてもよいのは、ある意味で平和な時代の証なのかもしれない。しかし、今やその前提も変わろうとしている。グローバリズムへの反動から、将来、日本らしさを求める風潮が、再び強まるかもしれない。したがって、現在と過去の事象を往復しつつ、どのような日本建築論が語られてきたかを改めて確認する試みが必要ではないだろうか。

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