単行本

「作者の死」の彼方に ―ミシェル・ウエルベックの挑戦

 ミシェル・ウエルベックという作家から目が離せなくなって、すでに二十年近く経った。その作品世界はかなり、というかむしろ徹底して、暗い。人生はなぜこうも生きにくいのか、幸福はなぜかくも得がたいのかと嘆き、呻くようなトーンを基調とする。
 うっぷんは世の中全体に向けられ、西欧現代文明の根幹をなす(と彼のみなすところの)自由や進歩を是とする思想に対する批判、呪詛が投げかけられる。しかしまた、彼の内には何よりも自分自身を容赦なく糾弾し非難する言葉が沸き立っている。「私は自分を愛さない」という一文で始まるエッセーを書いているくらいである。そうした文章が、なぜかいたく共感を誘う。単に暗鬱というのではなく、破れかぶれな正直さがいっそ痛快で、引き込まれるのだ。
 話題作『素粒子』以来、文壇の憎まれっ子というかお騒がせ屋としての存在を揺るぎなく確立し、世界各国で人気が高まった。その『素粒子』から十二年後、ついにゴンクール賞に輝いた『地図と領土』こそは、彼の到達点を示す最高傑作にちがいない。とにかく訳しているあいだ、楽しくて仕方がないという、訳者にとっては実にありがたい小説だった。
 主人公ジェドは、部屋にこもってひたすら絵を描くだけの索漠たる生活を送るアーティストであり、今回もまた決して明るい物語ではない。母親が若くして自殺しただの、仕事一筋でがんばってきた父親は病に侵され、安楽死を希望しているだの、暗澹たる話題を次々に繰り出す語り口は、もはや名人芸というべき安定を示している。
 しかも、悲観主義にどっぷりと浸るかにみえて大胆な想像力を発揮し、驚くべきトリックを仕掛けてくる点にこの作家の真骨頂がある。『地図と領土』の大きな仕掛けのひとつは、主人公が知りあいになる相手として「ミシェル・ウエルベック」が登場してくることだ。二人の孤独な芸術家のやりとりがしみじみといい味わいで、両者のあいだに仄かな友情が芽生えてくるあたりが最初の読みどころである。だがやがて惨劇が出来する。詳しくは言わずにおくが、「ミシェル・ウエルベック」が殺害されてしまうのだ。そこからの展開は、こんなミステリは読んだことがないと思わされるような不思議な刺激に満ちている。
 フランス文学をこれまで突き動かしてきた――と同時に縛ってきた――大きな要素は、現代性の追求ということだった。伝統的な諸価値にラディカルな異議申し立てが突きつけられる中で小説は力を失い、尖鋭な批評と「現代思想」の天下が訪れた。ロラン・バルトの「作者の死」はその象徴となった論考である。だが現代性とは間違いではなかったのか、不毛への道ではなかったのかというのが、ウエルベックの文学の根幹にある問いだ。本作における「作者殺害」という驚くべき事件には、バルト的「作者の死」への強烈なアイロニーと、それを乗り越えようとする大胆な小説家宣言が込められているのではないだろうか。作者の死だなどと言い出したらきれいごとではすみませんよ。その現場はこんな具合になり、そして捜査に当たる警察官はこういう思いを味わうのですよ。そういう風にウエルベックは発想を広げていく。そこに小説的なスリルが走る。作者の死をも題材として貪欲にみ込みながら、作品がダイナミックに立ち上がるのだ。
 主人公ジェドは「ウエルベック」の生前にその肖像画を描いていた。世捨て人となりながら、作家の眼差しにはなお「ひとつの情熱、惑乱的でさえある何かが宿っている」。その視線を肖像画は見事に写し出し、傑作ができあがった。メランコリーのただなかにあって燃え続ける情熱の焔を、『地図と領土』という小説自体も確かに伝えている。あっぱれウエルベック、と喝采を送りたくなるような、起死回生の傑作なのである。

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