ちくま学芸文庫

ジーン・シャープとアウンサンスーチー

『独裁体制から民主主義へ ─権力に対抗するための教科書』

 ジーン・シャープの名前を私がはじめて聞いたのは、一九九四年にバンコクでビルマ人活動家たちと話をしていたときである。一九八八年に生じたビルマ(ミャンマー)の民主化運動は国軍によって封じ込まれ、発足した軍事政権によって関係者の逮捕や無慈悲な処罰が繰り広げられた。そのなかで、多くの学生活動家たちが山を越え、国境を越え、タイ側に入ってきた。私が会った活動家たちもそうした元学生らであった。彼らの力のこもった説明を聞きながら、それまでシャープのことを全く知らなかった私は、その非暴力戦略論に感銘を受けた。非暴力でありながら「軍事的」とも言える戦略論に強い興味を覚えたのだ。
 その後、一九九〇年代後半、東京で在日ビルマ人が発行するビルマ語機関紙などを通じて、何度か彼の名前をみかけるようになった。彼の著書『独裁体制から民主主義へ』は、世界各地で独裁政権と闘う人々のあいだでいまでも大きな影響力を持ち続けているが、そもそもはビルマの民主化運動を外側から支援するために書かれた理論書だった。後から知ったことだが、この本のおおもとは、一九九〇年代はじめに在タイのビルマ人が発行する機関紙にシャープのインタビュー記事としてビルマ語で連載されたものである。
 ガンディー流の非暴力主義を戦略的に組み立て直し、独裁権力と戦い民主化を実現させるための指南書として提示されたシャープの理論は、ビルマ語版であれ、英語版であれ、そして今回出版される日本語版であれ、かなり抽象的で難しい内容である。しかし、ところどころに具体的な「作戦」を示唆するわかりやすい個所があり、そういう部分がビルマ国外で非暴力を手段に民主化活動を続ける人々のあいだで読み継がれ、かつ勇気を与えてきたのだといえよう。
 ただ、ビルマ国内に目を転じると、事情は大きく異なる。シャープの名前もこの本の存在もビルマの中ではあまり知られていない。昨年来のこの国の「変化」のなかで、状況は変わってきているとは思うが、ビルマ国内に住む人々のあいだで彼の名前が登場することはこれまでほとんどなかった。
 その理由は明白である。ビルマ国内にはアウンサンスーチーという非暴力主義に基づく民主化運動のカリスマ的リーダーがおり、国民の圧倒的な支持のもとで長期にわたる指導をおこなってきたからである。彼女はシャープの影響を受けて非暴力主義の運動をはじめたわけではない。青春時代からの読書や思考を通じて、彼女は彼女なりにガンディーの強い影響を受け、非暴力主義の重要性をビルマの現代政治のなかで訴え、かつ実行してきたのである。軍政期二十三年のうち実に十五年間を自宅軟禁という不利な状況で送った彼女であるが、国民の多くは彼女が手段として選んだ非暴力の意味をしっかり理解していた。
 しかし、ビルマ国軍が日常的に情け容赦なく襲いにかかってくるタイビルマ国境などで反軍政の闘いを展開する人々にとって、彼女のメッセージは届きにくく、非暴力主義は「臆病者の選択」ないしは「受身的な抵抗」とみなされてきた。そういう彼らに非暴力主義の持つ本当の力と価値を理解させることになったのが、シャープのこの著作なのである。アウンサンスーチーによる非暴力の闘いを高く評価し、具体的な内容を含む作戦指南書だったからこそ、彼らはこの本に魅力を感じたのである。本書はその意味で在外のビルマ人活動家たちとアウンサンスーチーとの「真の架け橋」を築くきっかけを与えた本だったといえる。
 ビルマの最近の「変化」は国際的な注目を集めている。しかし、いま生じている「変化」は、残念ながら長期にわたる非暴力闘争の勝利によるものではなく、ビルマの軍人たちが十数年かけてつくった、国軍の特権を保障する二〇〇八年憲法がもたらしたものにすぎない。経済的な自由化は進むだろうが、政治的な民主化はこの憲法の改正なくしてはあり得ない。軍が容易には譲らない憲法上のさまざまな特権を廃止できてはじめて、ビルマの非暴力による民主化闘争は成功したといえるようになる。その日まで、アウンサンスーチーと彼女を支える国民の闘いは続く。

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