単行本

岸本さんもしくは兄さん的なもの

岸本佐知子著『なんらかの事情』

 あの醤油や餃子のタレのパックに書かれている、「こちら側のどこからでも切れます」みたいなものを、「岸本さん」あるいは「兄さん」と呼んでいる。「兄さん」というのはわたしが勝手に、岸本さんのことをそう呼んでいるからである。心の中で。この手のパックをみかけるたびに、ああ、兄さんは元気かなあと考える。そんなことを考えられても困るだろうが。
 この「岸本さんもしくは兄さん的なもの」は、まちなかにひそかにしかし大量に隠れており、実際のところ世界の大半はこの「岸本さんもしくは兄さん的なもの」からできている。それは一体どんなものかというと、『ねにもつタイプ』や本書『なんらかの事情』を読んだ人にはたやすくわかるものなのだが、一口には言いにくい。「こちら側ってどちら側よ」とか「どこからでもって本当だろうな」と、こちらの気持ちをむやみと動かしてくるもの、というのともちょっと違って、どうもうまく説明できない。
 岸本さんは素敵生活を送るエッセイスト(講談社エッセイ賞だってとっている)であると同時に、ひきこもり気味の翻訳者でもあり、いっつもシャツの襟が折れている兄さんでもある。
 何かのトークで聞いたのだが、翻訳という仕事では、書かれていることを訳すのは当然、書かれていないものまでもきちんと訳さなければならないらしい。そこに「犬」と書かれていたら、訳文に犬が出てくるのは当然として、その犬が白いか黒いかまでを考えなければならないという。原文に色が明示的に書かれていなくとも、そこまで読み取り、書かれていない犬の色が翻訳に反映されなければプロとは言えない。
「でも実際、小説家の人ってそこまで考えて書いてますか」と兄さんは聞き、
「いえ、考えていません」とトーク相手の小説家は答えていた。
 まあ、設定好きの人も中にはいるかも知れないのだが、ふつうに考えて無理である。小説に顔を出した犬の色まで全て決めなければいけないのなら、その飼い主の名前や生活、住所や町の名前や職業、上司のクセなんかも決めていかねばならないだろう。そんなことをしていては筆が全く進まない。
 他方で小説家というのは色んなずるい手を使うのであり、たとえば「ここに男が一人いる」と書いたとして、その男には手が三本あったとか脚は百本あったというくらいのことは裏で平気で考えている。それを平然と受け止めて裏を読み「もし脚が百本あったとして、その脚の色は何色だろう」と考えるのが翻訳者であるらしい。当然ながらそんな滅茶苦茶な設定の中で脚の色など決めようがない。書いた側でも九十本目は菫色で、九十一本目は黄緑色とかノートをつけているはずはないのだ。
「そうなの」と兄さんは聞きそうである。脚の色が決まっていないというのは一体誰が決めたのか。たとえその小説家本人が、色なんて決めてませんよと言ったところでどれほど信用できるものなのか。
 点を番号順に結んでいくと、一筆書きの絵になる遊びがあるが、点を折れ線でガキガキ結んでいく奴は下手くそである。番号と番号の連なりを見抜き、滑らかに線を引くのが賢明なのだが、小説や現実というのは点結びより明らかに複雑であり、点や単語や風景の間に奇妙なものをそれは大量に仕込んでいる。
 岸本さんのエッセイを読むと、こんな光景が浮かぶ。砂場に転がる小石の間を、少年が木の枝で線を引いて結んでいる。途中、枝の先が砂中の何かにぶつかる。少年は無造作に棒を押し込み、砂場にどくどくと緑色の液体が溢れだす。
「どうしてそうなる」
 とわたしは声をかけるのだが、少年はきょとんとした顔を向けるだけである。そうして一心に棒を押し込む作業へ戻る。

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