単行本

時代の証しとしての家庭料理

阿古真理著『昭和の洋食 平成のカフェ飯――家庭料理の80年』

 ときどき近所のコンビニで会う母子連れがいる。昼どき、レジで待っているとちいさな兄弟が脇をすり抜け、列の前の母親が持っているかごに「これも!」とおまけ付きソーセージを二本追加した。つられて視線を落とすと、そこには六、七個の菓子パンがごろごろ入っていたから印象に残った。次に会ったのは夕方で、かごのなかは握り寿司セット、スパゲティミートソース、親子丼、ぜんぶ種類の違うコンビニ弁当だった。トレーナーにジーンズの、ごくふつうの若いお母さん。嵩張る袋をぶら提げて出てゆく背中に、わたしはくりくりの目をした男の子ふたりの姿を重ねた。
 思えば遠くへ来たものだ。そんな言葉が口を突いて出る風景だったが、菓子パンやコンビニ弁当もまた、紛れもなくわたしたちの日常の一端だ。いつ、どんな成りゆきでここへ漂着したのやら、来し方行く末に思いを馳せてみたくもなる。と同時に、握り寿司セットとスパゲティミートソースと親子丼が魔法のように瞬時に出現する食卓は、日本の社会や文化の今後を模索する手だてでもあるだろう。ただし「食卓」とひとくちに言ってはみても、たった二文字では掬いきれないものの多さに、わたしはしばしばもどかしい気持ちを覚える。
 本書は、家庭料理に光を当て、その道すじを丹念に照らしながら日本人の生活を読み解こうとする労作である。家庭料理を仔細にたどってゆくと、なにが見えてくるのか。黙々と坑道で懐中電灯を当てるような記述を支えるのは、著者のこの思いだ。「現在は過去の積み重ねで成り立っている」。
「ああ、やっぱりオイル焼きはうまいよなあ」の引用に膝を叩いた。テレビドラマ「寺内貫太郎一家」の夕餉、周平の科白である。なつかしいなあ。そうだった、あのころは牛肉のオイル焼きと呼ぶのが新しくて、うれしい時代だった。NHK「きょうの料理」、TVドラマ「寺内貫太郎一家」「だいこんの花」、雑誌「主婦の友」などを取りあげて昭和中期の家庭料理を俯瞰し、こう指摘する。昭和三十年代、政府は日本人の体格向上のために油炒めをさかんに奨励した。油汚れにつよい台所用洗剤がライオン油脂から発売されたのも、昭和三十一年――すでに家庭料理は政治や経済、産業を複雑に反映した産物でもあったことを示している。
 地道に変遷を追い、要所で分析をほどこす。たとえば「オレンジページ」が発見したのは、和惣菜のつくりかたを知らない主婦層だった。「美味しんぼ」が伝えたのは、食に関するジャーナリスティックな情報。「ハナコ」の功績は料理をつくらない女性に市民権を与えたこと。そして、女性の社会進出は外食・中食産業の興隆に繋がり、食卓はいよいよ絡んだ糸のよう。二〇〇〇年以降の食卓は「崩壊と再生」の場と捉えられている。人気雑誌「マート」が掘り起こした「食生活にビジョンを持たない主婦」の存在、レシピブロガーや男性料理研究家などの登場の意味、スローフードの一大ブームなどを取りあげ、作家・角田光代の小説に描かれる食卓からは現代の家族の確執を抽出する。フードスタイリスト飯島奈美の人気はこう分析される。
「にぎやかな食卓のシーンに癒される人々は、まるで『マッチ売りの少女』のようだ。(中略)生き延びることで精一杯の人がふえていることを、食を描くメディアから読み取ることができる」
「マッチ売りの少女」の響きが、なんともせつない。しかし、八十年におよぶ変遷を辿る道のりのなか、おのずと浮かび上がってくるのは、家庭料理はひとの営みそのものだということ。きわめて多様で煩瑣、いや、だからこそ愛憎ないまぜの濃密な世界が展開してゆくと信じたい。時代の証しとして提示された家庭料理の味ひとつひとつをいとおしいものとして肯定しながら、その存在意味をあらためて再確認した。

関連書籍