ちくま新書

近代の核心に迫るフーコー

『ミシェル・フーコー――近代を裏から読む』

 本を書いたとき、最初の読者は誰だろう? それは書いた自分自身だ。では二番目の読者は? たいていの場合、担当編集者だ。著者である自分の方は、最初のラフスケッチ、原稿、修正稿、そしてゲラ段階での初校、再校……と読みなおすにつれて、だんだんと「読者」の位置に立って、つまり遠くから作品を眺めるようになる。これに対して編集者の方は、はじめは著書の内容を知らず、一読者に近い場所から作品を見ている。おそらく編集者には独特の距離感があって、はじめから読者とは違った観点から作品を眺める部分もあるだろう。それでも、何度も読みなおし校正をくり返す中で細部を記憶するものだし、それにつれて作品との距離も少しずつ縮まってゆくようだ。
 両者に接点があるのか、それとも本質的に別々の二つの営みなのかは、私が著者の視点しか取れない以上分からないままだ。でも今回の本で興味を持ったのは、だんだん読者になる著者と、だんだん作品との距離が縮まる編集者が、この本は前半より後半の方がおもしろいという共通の感想を抱いたことだ。
 こんなことを書くと、じゃあ前半はおもしろくないんだと思われるととても困る。でも、だんだんと離れてゆく距離感の中で何度読みなおしてみても、やっぱり後半がおもしろい。
 どうしてなんだろう。単に書くのに慣れたとか、勢いが出てきたとか、そういうことではない。最初からアイデア満載のつもりで書いたし、前半だってそこだけ読めばけっこうおもしろい(と、思いたい)。私が推測する理由は、前半と後半では視点が少し変わっていて、前半の下準備が後半になって一気に何かにつながっていくというものだ。
『監獄の誕生』は、まさに近代を「裏から」読んだらどうなるかを、フーコーが真剣に試した本だ。彼は全部を裏がえしにして、八つ裂きにされる死刑囚、街に溢れる浮浪者、暴徒と化した貧民たち、闇にまぎれて盗みを働き悪事の片棒をかつぐ人々のざわめきと呻き声から、一つずつ、丁寧に、近代を描きなおす。そこでの描写は下から、外部から、周縁からはじまる。
 私の本の前半は、フーコー独特のこの「裏から」の視点を読者に示すために書かれている。これは何というか、ホラー映画や犯罪小説にはまるときの楽しさに似ている。ところが後半になると、この「裏から」の視点が、ある別のものへと予想外につながっていくのだ(著者自身はじめは意識しておらず、書いてみたらそうなっていた)。
 もちろん『監獄の誕生』の中でも、フーコーは社会の中心と周縁との関係を両方の側から丁寧に描写している。だが、その後フーコーが展開し、未消化のまま置き去りにされた「統治」をめぐる研究では、視点がちょっと違ってくる。この研究は、中心が周縁に何をしたかを暴く「下から」の歴史の一部としてではなく、周縁からの歴史が中心の「中心性」を照らし出すという意味で、結果として「表の近代の最深部にある秘密に迫る」ものになっているのだ。つまり、裏からはじまった近代史がいつの間にか表の近代の中心にある謎を指し示し、それを解く鍵を与えるという作りになっている。
 今回の本では、まだその謎は十分解かれてはいない。でも、なぜ裏からの歴史がめぐりめぐって、近代の核心としばしば考えられてきた、主権、法、権利、国家などのテーマと結びつくのかは示せたと思っている。近代の核心をとらえようとこれまでなされてきた、「正統派の」アプローチでは決して届かない最深部の秘密に、フーコーはある時期たしかに手を掛けたのだ。
 二〇年も研究してきたのに、私は今回はじめてそのことにはっきり気づいた。だんだんと読者の距離から自著を読み返す過程ではじめて。そしてなぜ自分が、研究の当初から「統治性」というテーマにこの上ない魅力を感じながら、同時にこれ以上踏み込むことを恐れてきたのかも分かった。それは近代という謎の巨大さと解きがたさに対する恐怖あるいは畏怖なのだ。
 ということで、この本を読めば、フーコーと一緒に近代を思う存分裏読みできる。しかも近代の最奥の秘密に迫る道筋に、薄ぼんやりした明かりぐらいは灯せたはずだ。

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