ちくま文庫

野菜たちの〈したたかな〉生きかた

 今、野菜がちょっとしたブームである。
 農家直送の新鮮な野菜販売コーナーに人々は行列を作るし、野菜の味にこだわった自然派のレストランや、豊富な野菜の知識を伝える野菜ソムリエの資格も人気である。旬の野菜を使った野菜のスイーツまであるほどである。美容や健康、ダイエット目的から野菜を求める人も多い。
 それにしても、そもそも、「野菜」とは何者なのだろうか?
 野菜の正体は、植物である。
 そんなことは当たり前なのだが、私たちが、食卓に並ぶ野菜に植物としての「生命」を感じる機会は少ない。
 忘れられない体験がある。
 古い下宿アパートの友人の一室に、ゴミの山に咲く黄色い花を見つけた。何だろうと思ってゴミの山をかき分けてみると、中から現れたのは、しなびたハクサイだった。あろうことか、ハクサイから茎が伸びて花が咲いていたのである。
「野菜だって生きている」
 今回、出版させていただいた『身近な野菜のなるほど観察録』の原点は、まさに、このときの感動にある。
 野菜は、私たちにごく身近な植物である。
 サラダに漬けもの、野菜炒めに、カレーライス。
 野菜不足の食生活と言われる現代でも、野菜は、毎日、私たちの食卓に並ぶが、野菜の生命を感じる機会は少ないだろう。
 私たちの目の前に並ぶ野菜たちは、どれも皿の上に美しく盛り付けられて、すっかりよそゆきの顔をしている。とても「生きている」という実感は持てないのだ。
 ところが、野菜畑では違う。
 固く葉を丸めたキャベツでさえも、春になれば、葉がほぐれて茎を伸ばして花を咲かせる。
 芋呼ばわりされている野菜たちも、ジャガイモはマリー・アントワネットが愛したとされるほどの、美しい花を咲かせるし、サツマイモは、アサガオのような花を咲かせる。
 キュウリは熟すと、丸々とした黄色いウリになるし、苦いピーマンも熟せば赤く甘い果実に変身する。
 皿の上で物言わぬ野菜たちも、畑での暮らしぶりは実に生き生きとしたものだったはずなのだ。
 そして私たちは、そんな野菜たちの生命をいただいて、自分たちの命の炎を燃やしているのである。
 それにしても、よくよく見ると、野菜と言うのは奇妙な植物である。
 キャベツやレタスなどは、ボールのように丸まっているし、スイカのように巨大な果実も野生では珍しい。
 カリフラワーやホワイトアスパラガスのように、真っ白い野菜さえある。
 野菜は人間のパートナーとして共に長い長い歴史を歩んできた。そして人間によって、さまざまに改良されてきたのである。
 人間の身勝手な欲望のままに、姿や形質を変化させてきた野菜たち。彼らは、人類の繁栄の歴史の犠牲者なのだろうか。
 私は、そうは思わない。
 人間たちは、水をやったり、肥料をやったり、野菜の世話に忙しい。
 タンポポが種子を綿毛で飛ばすように、植物は生息地を広げ、数を増やそうとしている。ところが、野菜たちは、苦労しなくても人間たちが世界のすみずみまで運んで種をまいてくれるのだ。そう考えれば、野菜たちにとって姿や形を変えることは何でもないことなのかもしれない。
 人間が野菜を利用しているように見えて、じつは、利用されているのは人間の方かもしれないのである。

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