単行本

書と文学の関係をめぐって

吉本隆明・石川九楊著『書 文字 アジア 』

 吉本さんとの対談集『書文字アジア』が出たが、吉本さんと「書」という組み合わせを意外に思う人も多いことだろう。
 実は私もそうだった。一九八五年、吉本さんの『隠遁の構造――良寛論』(修羅出版部)を手に入れるまでは。しかしここで良寛の書に即して具体的な評論が相当の頁にわたって展開されているのを読んで、私の予断の不覚を知った。
 吉本さんが書に興味や趣味をもっていたからその論が書かれたのではない。「歌とか長歌とか、そういうもののほうが余技というくらいで」「良寛の書がいちばん良寛を表現している」と対談の中で語ったように、良寛の文学を追いつめて行ったときに、必然的に書に遭遇し、接近していかざるをえなかったのである。これは、ほとんど書について発言しなかった小林秀雄とまったく異った批評の方法を証している。
 吉本さんが書について語りはじめた、つまり吉本さんの文学評の視野の中に書が入ってきた――それは私にとって衝撃的な体験であった。茶道や華道と同列か、美術の一亜種程度に考えられてきた枠組を超えて、ようやく「言葉を書く」美学へと「書」の正体を見定めてきた私は、このとき、いずれ吉本さんと書をめぐって交叉する時が来るだろうと予感した。
 その後さらに、「書く」ことを「筆蝕する」にまで追いつめた私は、一九九二年『筆蝕の構造――書くことの現象学』(現在ちくま学芸文庫)を上梓した。一八八三年、小山正太郎と岡倉天心の間でたたかわされた「書は美術ならず論争」以来の近代、現代の煮え切らない書論をすっきり脱しきったという確信があった。
 これを機に、『書文字アジア』と題する吉本さんとの対談が筑摩書房で企画された。文学の批評と書の批評がどのように出会い、また訣れるかを探ろうという企図からであった。
       *
 二十歳以上も齢の離れた私に対して、吉本さんは一語一語むだのない言葉でまっすぐに語り、答え、質された。書き言葉に鍛錬られた話し言葉が口腔を響かせた声で私に届いてきた。吉本さんは文字を切り貼りした資料を持ち込み、私は話題にのぼりそうな図版を多数用意した。時には、二人で図版を覗きこみ、逐一、文字の字画を指さし、なぞりつつ話が進んだ。私にとっては片言隻句もゆるがせにできない張りつめた三日間であった。
 対談がはじまってすぐに、文学の文体と書の書体との相似性は明らかになった。
「和歌の流れを芸術にしたはじめての人が俊成で、定家はそれをもっと凄まじいところまで追いつめていった」という吉本さんの文学評は、そのまま俊成、定家の書への評価と符合した。
 岡本かの子の作品の「常人じゃない所がある」、三島由紀夫の「どこまでいっても装っている」、高村光太郎の戦後の詩は「プロセスの隠れた結果」「彫刻の延長」――ここでも文と書は相似の姿を見せた。
 当時、一部の詩人や作家・デザイナーがはやしたてていた井上有一の書について、吉本さんはその「稚拙化」を指摘し、禅僧の書については「くどい」「くさい」と評した。それは私の評価とほぼ一致するものであった。
 むろん「価値論はどうなる?」と疑問符がついたり、「私は同意しない」と対論のまま終った項目もあったが、これまで別次元のものと考えられてきた文学の文体と書体の出会いの姿が次々と甦える、至福の対談であった。
 多くの読者は文学と書とは今なお別のものと考えていることだろう。ソシュールやヤコブソン等印欧語の言語学を超える世界大のそして人間の生活から切り離すことのできない言語学を構築し続けた、吉本さんの、「筆蝕こそが書き言葉の表現としては主流であって、……これを意味で見えるように整理したものが文学なんだという観点を拡張していけば……たいへんな言葉の理論になる」という言葉に立ちどまってもらいたいと願う。
 無念にも、吉本さんは本書の発売日でもあった三月十六日未明に亡くなられた。心からなる合掌を献げたい。

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