ちくま学芸文庫

柳宗悦と鈴木大拙
『柳宗悦コレクション(全3巻)』

 鈴木大拙先生と柳宗悦先生は、親子でもこうはうまくはいかないだろうという感じのお二人でした。温かで、言わなくても通じ合うという雰囲気。お互いに尊敬しあわれていたのだと思います。もともとは、教師と生徒という関係でしたが、大拙先生も柳先生のお考えに同意するところが多かったのでしょう。お二人の交流は、柳先生が先に逝かれるまで、生涯続きました。
 柳先生はよく、大拙先生に、マイスター・エックハルト(一二六〇頃~一三二八年頃。ドイツのキリスト教神秘思想家)の思想に関するお話をお訊きになっていらっしゃいました。駒場の民藝館に大拙先生がお出かけになると、志賀直哉さんや長与善郎さん、武者小路実篤さんにお声をかけて、サロンのように、エックハルトのお話をお聞きになっていました。
 大拙先生は、エックハルトの思想の中にある、「無」や「空」というものが、禅の世界に近いと考えられて、いろいろなお話や本の中で紹介されています。もちろん、禅と全く一緒ということではないですが、エックハルトの言う、Gottheit(神以前の神)、始原、何もないところにすべてを見る思想に、同感しておられたようです。
 民藝運動はモノに関する運動ですが、柳先生がおっしゃりたかったのは、美しいモノが生み出される世界のことだと思います。柳先生は、その究極の条件を、阿弥陀仏の「本願」にある第四番目の願文「無有好醜の願」に見てとられたのです。なぜ、そこまで掘り下げなければならなかったのか。それは、人間という生き物の中に、意識というものが目覚めてしまったからです。
 ものごとを相対的に分けて見ることが出来るようになった反面、分けて考えてしまうことで、自我が中心になってしまう。意識に縛られてしまう。「ただ」が出来ない。不自由になるのです。この意識の枠を取り外せば、そのもともとにある「無限」の次元にもう一度触れることが出来るのです。
 ある時大拙先生は、「もともとなんにもないんだ」とおっしゃいました。若い頃で分かりませんから、「もともととはどこまでさかのぼればもともとなのですか」とお訊きしたんです。そうしたら大拙先生が、「美穂子さん、ちょっと立ってごらん。あなたが二本の足で立っている、その一点があなたのもともとなんだ」とおっしゃるんです。そこで私は、「じゃあ、私が歩きまわったらそのもともともついて回るのですか」と続けてお訊きしましたら、大拙先生がとても喜ばれて、「その通りだ。どこまででもついてくるんだ。他を探す必要はないんだ」とおっしゃったんです。
 それでは、「何もない」とはどういうことなのか。何もないといっても、世の中には、たくさん色々なものがある。そうしたら、先生は、「あますことなくなーーーーんにもない」とおっしゃったんです。
 柳先生は、「用の美」とおっしゃいました。「用」とはつまり人のために役立つこと。そのことが中心であって、作り手の姿はあらわれなくてもよいのです。自分ではなく、他の役に立つということが中心になっているかどうか、これが物を作る上でのチェック機能としてはたらくと思います。
 また、数多く作ることは、家族を養う意味もあるでしょうが、同じ作業を反復することで「無心」ということを知る好機を得ることがある。柳先生は、「無我、無心」の境地を、民藝という具体的なものによって、見ることができたのです。そして、そこに、健康で、無作為、自由で安らぐ国があることを、確認することができたのです。
 柳先生はよくおっしゃっていました。「美穂子さん、いいものを身近に置くと、それだけでいただくものが、ずいぶんあるんだ」と。

聞き書き・編集部

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