ちくまプリマー新書

「奇跡の自然」の守りかた

三浦半島・小網代(こあじろ)の谷から

4月のちくまプリマー新書より「まえがき」を公開します。源流から海までの生態系が自然のまま残された「小網代の谷」はどのように守られたのか? 型破りで新しい自然保護の形とは??

小網代入門


 小網代(こあじろ)の森は、2005年に保全の決まった、全国の自然保護の分野で注目されている、神奈川県三浦半島の緑の谷です。本書は若い読者のみなさんに、その小網代のユニークな保全の歴史を、楽しみながらじっくり理解していただき、もちろん小網代散策にもぜひ出かけていただきたいと願って執筆されました。でも、保全の歴史をたどる本文には、ときに高校生の皆さんには難しい展開があるかもしれません。そんなとき、みなさんが混乱せず、読み進んでいただけるよう、小網代の自然の概要、本書のテーマの概要を、冒頭でざっとお話ししておきたいと思います。では、さっそく小網代の谷、ご紹介です。

オンリーワンの谷
「小網代の森」は三浦半島の先端にある、ひとまとまりの自然です。
 東京からは電車で約60㎞。東京・品川駅からだと、京浜急行に1時間半乗って終点の三崎口駅で降り、そこから1.5㎞歩くと、小網代の森の入り口に到着です。東京からぎりぎり通勤10圏内にある森ということですね。
 広さは70ha。東京の明治神宮とほぼ同じ面積。大きさだけでいったら首都圏に、もっと大きな森はいくつもあります。広大ではありますが巨大な森というわけではありません。
 トキやパンダみたいなすごく珍しい生きものがいるわけでもありません。コウノトリもいなければ、カワウソもいません。小網代で見られる生きものの多くは関東地方で普通に見られるものが中心です。
 それでもこの森は、首都圏で「オンリーワン」の自然なのです。もっと大きく言ってしまうと、世界中の大都市、ニューヨークやロンドンやパリや北京やバンコクやシンガポールやリオデジャネイロの通勤圏内にある自然を見わたしても、もしかしたら「オンリーワン」の存在なのかもしれないと、私はひそかに思っています。
 なにが「オンリーワン」なのか? 小網代の森は、ひとつの「流域」が源流から河口まで、まるごと自然のまま守られている、という事実が、オンリーワンなのです。
「流域」については本文や192ページで詳しく説明しますが、ざっくりいうと、山のてっぺんから河口まで、川が削ってつくった葉っぱのようなかたちの凹んだ地形のことです。
 ほとんどの土地は、必ずどこかの川の流域に属します。東京近郊でいうと、「利根川」流域があって、その隣には「荒川」流域があって、「神田川」流域があって、「渋谷川」流域があって、「目黒川」流域があって、「多摩川」流域があって、「鶴見川」流域があって、という具合です。雨の降らない砂漠や、一年中氷の溶けない極地を除くと、陸地のほとんどは「流域」によって区分されます。太古の昔からずっとです。
 みなさんも、必ずどこかの川の流域に暮らしています。渋谷に住んでいようと、岸和田に暮らしていようと、シリコンバレーに居を構えていようと、バクダッドに滞在していようと、それぞれの場所は、必ずどこかの川に注ぐ流域のどこかに属しています。
 空から降ってくる雨水とが、大地を削ってつくる流域という地形は、地球の陸地を区切るもっとも「自然」な地形の単位、生態系の単位です。このため大地に住まう多くの生きものたちも、流域の単位に沿って暮らしてきました。川を遡ったり、あるいは降ったり、海と山とを行ったり来たりしながら。
 人間もまた、「流域」を利用して暮らしてきました。巨大文明は、大河川の河口部で発達しています。ナイル川とオリエント文明。チグリスユーフラテス川とメソポタミア文明。
インダス川とインダス文明。揚子江や黄河がと中国文明。日本でも東京は利根川と荒川の流域河口部に、大阪は淀川河口部に発達した都市です。
 その結果、ほとんどの川の流域で、人間の暮らしが繰り広げられています。どんなに上流部が清流であろうと、中流には住宅街や工場があったりして、河口部は汚れていたりします。また、川の途中にダムがあったり、あるいは道路が横切ったりしています。
 ところが小網代の森は、真ん中を流れる川の最上流部から河口の干潟まで、1軒の家も工場もなければ、自動車が通るような道路もありません。たった70
haしかありませんが、流域という地形がまるごと自然のままで残されているのです。
「流域が源流から海までまるごと自然のまま残されている」。この規模のひとつの流域の自然がまるごと残されているところは、関東地方では小網代ただひとつ。これが小網代の森のオンリーワンなところであり、貴重なポイントなのです。
 では、流域がまるごと自然で残されているというのがなぜ「貴重」なのか? そもそも流域は、雨の降る大地の基本生態系なので、大地の全ては流域で覆われているのです。にもかかわらず、完全な形の流域がたったひとつしかないとわかったら、それ自体がとんでもなく貴重ということになりますね。自動車は無数にあっても、基本パーツが全て正常な自動車は、いま1台しかないとわかったら、その車は文字通りオンリーワンの貴重車です。さらにいえば、流域生態系がまるごと自然であるということは、生態系を作り上げる森や、草地や、池や、川や、海辺などの地形の要素が、人間の活動によって破壊されたり、汚染されたりせず、しかもとんでもなく多様であるということですね。住み場所が多様であれば、住む生きものの多様性がケタ外れに豊かになる。これもまるごと自然の流域がもっているきわめて大きな価値といえるのです。

ユニークな保全活動

 そんな小網代の森は、ずっとずっと大切に守られていたわけではありません。1980年代、小網代の森を所有している企業と地主さんの意向でリゾート開発が計画され、1990年代には開発で消えてなくなるはずだったのです。
 著者である私たち(岸由二と柳瀬博一)は、開発が明らかになる1985年よりほんのちょっと前に、この小網代の自然の存在を知りました。その貴重さに気づき、そしてゴルフ場開発の計画を知り、小網代の森の保全活動を続けました。それから30年。結論をいってしまうと、ゴルフ場もリゾートホテルもヨットハーバーもつくられることなく、小網代の森は、流域がまるごと、ほぼ全面にわたって保全されたのです。
 国が保全の網をかけ、神奈川県が土地を買収し、誰もが楽しめるように1本の木道を通すだけの整備を行って。2014年の夏に一般開放され、誰もがいつでも無料で小網代の森を散策できるようになりました。テレビや新聞でも大きく特集されて紹介され、けっこう有名な存在になりつつあるのです。そして、いま私たちは、保全の実現したその森で、神奈川県、三浦市、(公財)かながわトラストみどり財団と連携し、NPO法人のスタッフとして流域の森や川や湿原の「手入れ」を続けているのです。
 しかし、ゴルフ場になるはずだった小網代の流域は、いったいどうやって守られたのだろう?
 本書は、この「?」に答える物語を、時系列にそってつづってゆくのですが、ポイントを明確にするために、最初に基本的な答えを紹介してしまいましょう。私たちのミッションはこうでした。「行政も同意する可能性の高い、大企業によるゴルフ場開発の危機にある自然を、一体全体、どう守る」。
 さあ、みなさんだったら、どうやって守ります? 典型的な自然保護のイメージで、対策を並べてみましょう。
 
 1 珍しい絶滅危惧種をみつけて、貴重だから守れ! という。
 2 開発する企業や自治体を「悪者だ!」といいふらす。
 3 開発は何が何でも反対! 木一本倒すな! と主張する。
 4 いろいろな人たちに声をかけて反対デモを行う。
 5 政治家にお願いして、開発反対の声を拡散する。

 うんうん、そうだよね、と思う人、少なくないのではと思うのですが、いかがでしょうか。
では、小網代の森はどうやって保全したのでしょうか? その答えは―。
 
 1  珍しい生きものが貴重と言うのではなく、「流域まるごとの自然」が貴重だと言う。
 2 開発する企業や自治体を悪者にせず、一緒にやっていきましょうと歩みよる。
 3 開発反対! と言わず、開発は賛成です! と言う。
 4 反対デモなどはいっさいやらない。
 5 反対が得意なだけの政治家さんや団体さんには声をかけない。

 そうです、小網代の保全運動は、普通に常識と思われているような自然保護運動の活動とは、たぶん、逆のことをやったのですね。
 
 小網代の自然が守られたあと、公有地となった小網代の流域では私たちが組織するNPO法人小網代野外活動調整会議が、神奈川県、三浦市、(公財)かながわトラストみどり財団と連携協働して、日常的な維持管理活動を行っています。じつはその維持管理の方法も、おそらくみなさんが考える保全活動の常識とはかなり違っているかもしれません。普通、みなさんが想像する自然保全のイメージはこんな具合ではないでしょうか?

 ① せっかく守られた貴重な自然だから森にはいっさい手を入れず、「手つかず」にする。
 ② もちろん、1本たりとも木は切っちゃダメ。
 ③ まるごとの自然を守るため、森の中にはいっさい人工物を入れない。
 ④ 国立や県立の公園などにして、公園のプロに管理は任せる。


 実際はというと……。

 ① 森には定期的に人が入り、水の流れから湿原や木々の生え方まで「手入れ」する。
 ② 重要な自然だからこそ、時には大胆に木も切る。
 ③ 人工の木道を、上流から河口まで1本通す。
 ④ 公園管理にせず、NPOの民間スタッフが、日常的な管理や案内を行う。

 現在の小網代の自然の保全の仕方も常識的な「自然大好き」な人のイメージからすると、「常識外れ」かもしれないのです。時に、私たちは、森の木々を数十本伐採したりします。知らない人が見ると、私たちは森を守っているんじゃなく、破壊しているかのように思えるかもしれません。
 でも、小網代の森は、こんなやり方で、安全と魅力を確保し、よりたくさんの生きものが暮らせる生物多様性の豊かな環境を整えつつあるのです。一時は絶滅寸前だったホタルがシーズンになると一晩で1000匹も乱舞し、小網代の名物の生きものアカテガニが、真夏の夕方には海岸沿いを埋め尽くすほど現れて、お産をするようになっているのです。
 小網代は自然保護運動の方式も自然保全の作業も、従来のイメージからすると少々型破りかもしれません。もちろん私たちは、小網代で成功した私たちのやり方が万能だなどとは思いもしません。しかし、実は、難題で頓挫している多くの自然保護運動や自然保全作業の一部に、確実に役に立つケーススタディになっているはず、とも考えています。もしかしたら、あなたの周囲の貴重な自然も、「小網代方式」だったら、守ったり維持できたりするかもしれませんね。
 

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