ちくま文庫

すばらしき淫心

ちくま文庫『官能小説用語表現辞典』

 官能小説に現れた表現を、「女性器」「男性器」「声」などの数項目にわけ、言葉ごとに数行の引用文を掲げ、紹介したのが本書である。官能小説を、読みたい、書きたいという読者に、言葉からのアプローチをまっとうにうながす。たとえば「男性器」の「ペニス」の項目をみてみよう。「ジュニア」とか「巨大なソーセージ」とかいう古典的でわかりやすいもののほかに、肉竿、牡茎、火柱、卑棒、キリタンポ……など、苦心の名称が、ずらりと並ぶ。なかには「イギリス製の鉄兜」とか「象の赤ちゃんの鼻」などというものも。「肉筆(にくふで)」とある横には、こんな引用文が。

「背中をのけぞらせるようにして、郁子は鼻から熱い息を洩らした。 『じゃあ、これはどうだ?』  

いろはの『ろ』の字だけを、何回も肉筆を駆使して肉ヒダの中で書き続けた。」(藍川京『人妻狩り 絶頂玩具に溺れて……』)  

 はからずもここには、文字というものの持つ、肉体性が利用されている。いろはの「ろ」というのが、淫靡で生々しい。漢字にしろ、ひらがなにしろ、文字のひとつひとつには、こうしてうねりをもつ、運筆のエネルギーがしまいこまれているのだ。官能小説を読むということは、すなわち、母国語の文字に感じ、文字に犯されることなのかもしれない。  

 それにしても、本書の項目のうち、「女性器」のなんという圧倒的な量! 官能小説の主役は、「女性」ではなくて、「女性器」だったのね。少なくとも、「男性器」の五、六倍の分量がある。しかも、「男性器」には、「いけない張本人」とか「いけない坊や」「おとこ」「せがれ」「おのれ」などの主格表現が現れるのに対し、「女性器」はひたすら、眺められる受動的器官である。私はつくづく感嘆した。その豊富な表現の数にというよりも、言葉の背後にある、眺める目の情熱に! 

 それらを書いたのは作家だけれども、作家はひとつの出口にすぎない。言葉にこもるのは、それを名づけてきた男たちの視線だ。  

 当たり前のことかもしれないけれど、官能小説には、いかせるペニスと、いく女しかいない。女を満足させられなかったおちんちんはなく、感じなかったという女のからだもない。射精と絶頂が、大前提にある。この予定調和は幻想である。多くの官能小説は、あまりに簡単にいってしまうように見える。もちろん、読むほうだって、それを期待して読むんだけれど、これでいいのか。これでいいのだ。でも、それでいいのかな、とわたしはちょっと悩む。クライマックスという最終目的をもってしまっていることは、同時に官能小説がみずから孕んでいる罠ではないか。この辞典を読みながら、ふと、そんなことを考える。簡単にいくことを、ほんの少しだけ遅らせること、それが言葉の役割なのかもしれない。  

 オノマトペの項目には工夫が満載。そのものが出入りするさまをグシュニュリムチュグチュと書いたのは、館淳一。精液が出るさまを、どぴ、と書き、固くなったペニスの先端に現れた粒を、ぷにぷにと表わしたのは、内藤みかだ。  

あとがきで、編者の永田守弘は、「官能小説は性欲をかきたてるためのものではなく、もっと感性の深くにある淫心を燃えたたせるものです」と書いている。とても繊細な言い方である。官能用語を、いっしんに集めた、彼の情熱もまた、淫心の一種の変形だろうか。うごめく淫心がある限り、わたしたちはたしかに、生きているといえる。  

 本書は六年前に刊行されたが、今回、一部が差し替えられた。具体的には、「迫力表現」の項目が「絶頂表現」となって項目建ての内容がクリアになったほか、旧版にあった「年齢別女性器描写」というのがカットされた。これがほんとにただの辞典なら、あってもまったくかまわないのに。つまり言葉を並べただけで、そこには見る側のイデオロギー(若い方が絶対綺麗でいい)が自然とアカラサマになってしまうということなのですね。官能小説には「老女もの」っていうのは、ないのですか?(これ、素朴な疑問です)。

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