ちくま新書

今日を読み解く思想

4月のちくま新書より「はじめに」を公開します。船木亨さん『現代思想史入門』の冒頭を立ち読みすることができます。
 

今日、多種多様なサンチマン(意見ないし感情)が述べられている。国際情勢や社会問題、政治や景気、犯罪やゴシップ、あるいはビジネスやセクシャリティについて……。
無数に、無際限に述べられている。だが、それがどんな原理や基準に発するものかは、あまりよく知られてはいない。よく知られないままに、ありふれた日常のなか、ただ気ままに語られている。つぎつぎと起こり、とめどなく話題にされていく出来事の列。しかし、そのいずれであれ、もっと根本的に捉えなおしたいと思うひとも多いのではないか(「現在文明の情勢はどうなっているのか」……)。
 そのための書物を探してひとは書店やネットに向かう。だがそこには、――それが「現代思想」と呼ばれるものなのだが――、聞きなれない数多くの呪文のような言説の群れ。それらがいたずらに散乱しているのみ、と感じられるかもしれない。
 それらは、しかしながら、みな今日の状況を読み解くためのさまざまな原理や基準についての言説なのである。哲学というほどではないにしても、語られている意見や感情の、正統性の基準となったり、思考の枠組となったりしてきた思想の言葉なのである。
本書がめざす「現代思想史」は、今日にいたるまでに出現してきた数々の現代の思想の手引というつもりである。
 進行中においては手探りであるがゆえの曖昧さや難解さが伴っていたが、それが過去となって振り返られるときには、まさにあと知恵としてなのではあるが、何だこんなことだったのかと思えるようになる。そのように、現代思想の全体像を捉えなおしてみるのはどうであろうか。
とはいえ、現代思想とは「現代」の思想である。過去のものであるかのようにその歴史を扱うのは矛盾ではないかと思われるかもしれない。
 「現代思想」という語が指しているのは、現在進行中とはかぎらないある種の思想の数々である。構造主義やポストモダン思想がよく取りあげられるが、すでにそれらからは、世界を震撼させる突出した思考というオーラは失われている。ほかにも多くの懐かしい響きのする「現代思想」もあったのだが、それらもみな忘れられかけている。
 思いつくままに挙げると、マルクス主義、精神分析、優生学、心霊学、シュールレアリスム、環世界論、ゲシュタルト心理学、エルゴノミクス、サイバネティックス、社会構築論、マクルーハン理論、アフォーダンス、未来学、フラクタル幾何学、反精神医学、記号論、オートポイエーシス、合理的期待形成、ガイア仮説、正義論、カオス理論、新哲学、生命倫理、ファジイ理論、社会システム論、複雑系、脱構築……こうした新概念の長蛇の列。ハイゼンベルクの不確定性原理やゲーデルの不完全性定理など、特定科学にとどまるものが引っ張りだされることもあって、まだまだいくらでも並びそうである。(密かにだが)将来候補のリストもある。
 これらの理論は、少数の研究者による保存会のようなものがあるかもしれないし、特定領域の一分野を形成し、当該学界ではその意義を保っているかもしれない。としたら、ここに挙げたのは失礼なことである。だが、古代中世や近代初頭の思考が、書物のカバーを新装して新規に売りだされるかのようにして、言葉を変えてもち出されてきたといえなくもないものもある。それであるにしても、である。それらが現代思想としてブームとなっていた折には、もっと別様に捉えられていたのである。すなわち、そのそれぞれの特定領域の現象に対する論理や方法が、一挙に世界と人間のすべてに適用できるのではないかと期待されていたのである。
 たとえば「無意識」、それは人間精神の暗闇に光をさし込ませ、――二〇世紀前半の小説や映画にあからさまに使われたものだったが――、まったくあたらしい人間像を提示するキーワードだった。そしてまた「構造」、それは言語にかぎらない差異の体系として、文化と社会と人間の仕組を解きあかす、まったくあたらしいキーワードだった。
 それだけではない。ひとびとは、すべてを説明しつくす特別な論理や方法がどこかにあるはずだという希望のもと、つぎつぎに候補となるキーワードを見つけてきて、しかし、ただのキャッチコピーのようにして、いつか消尽してきたのであった。
結局それらは交替するばかりで、「科学のつぎなる進歩」、「新科学の出現」とはいかなかった。いまから振り返ると、それらは中世の魔術師たちが探し求めた「哲学者の石(持主に知恵を与える秘密の物体)」のようなものであった。近代初頭、デカルト的方法は、凡者にも習得可能な学問の用具として自然科学を導いたのだったが、その成功体験から離れられないという意味では、「躓きの石」でもあった。
 そもそも「論理や方法を探す」という発想自体が、旧世代的、近代的にとどまる。そしてそのようなものを追い求めていって、その挫折を通じて、今日の、「近代的」ではすまされない混迷した事態を確認した、それだけに終わってしまった――そうもいえないか。
そうした点では、哲学に属するとされてきた、功利主義、生の哲学、解釈学、現象学、プラグマティズム、ベルクソニスム、哲学的人間学、論理実証主義、実存主義等々についても、同様かもしれない。さきに挙げた構造主義やポストモダン思想は、そうした哲学の列を打ち止めにしようとして、哲学にとって代わるとみなされたから現代思想と呼ばれたのではあったが。

近代の行きづまり

 だが、こうはいえないか。近代哲学のそれぞれもまた、当時においては.現代思想.だった。それに続くつぎの世代の思想が、そのなかから「哲学」と呼ぶべきものを選別し、さらに続く世代の思想によってそれらの思想のなかからまた「哲学」とされるものが捉えなおされた……というようにして、近代哲学の系譜が確立されてきたのではないか。そしてその調子で、二〇世紀の現代思想も、二一世紀のわれわれの思想によって「哲学」として捉えなおされるのではないか、と。
 否、そうではない。現代思想はそのようには展開しなかったから「現代思想」なのであった。
 近代哲学とは、古代ギリシアのものとして発見された「哲学」が、西欧で新たに生みだされなおした西洋思想のひとつの伝統である。そして、もはやその近代哲学には含まれないものが現代思想なのである。哲学と呼ばれた最近の思想も、哲学的伝統にのっとってはいたが、決して近代哲学を超えた新たな哲学としての「現代哲学」だったのではなく、これらもまた、近代哲学には含まれないという点で、いまは現代思想と呼ばれていいかもしれない。
 近代とは、世界中のひとびとがいやおうなくさまざまな思想に巻き込まれながら、現在の自分の状況について考え込まざるを得ないようになった時代であった。それ以前は、宗教や身分や慣習がひとびとの心を占めていて、生活もそれに従っていればよかったのだから、一人ひとりの「思想」など、いわばどうでもよかった。それが近代になって、経済的な意味でも政治的な意味でも、自然や社会についての知識が必要とされるようになり、学校教育がなされて、一人ひとりがそうした教養のもとで思考することが近代社会を構成する要件とされるようになった。そして、人間、社会、世界、宇宙についての多様な思考が、日々の生き方を支えるため、あるいは、場合によっては、逆にそれから眼をそらさせるために、世界中に発信されてきた。
 そのとき近代哲学は、時代と文化を超えた普遍的な思考として、つまり各文化に内在するすべての伝統的思考を超えた人類全体にとっての思考となろうとしていた。ところがその後、つぎつぎと生まれてきた現代思想は、その挫折が明確になっていく過程をくり返し表現するにとどまってきたのであった。
 最近では、――とはいえ五〇年まえのことだが――、マルクス主義と自由主義経済のイデオロギー対立がひとびとの思考の中心的主題であった。しかしソヴィエト連邦が崩壊して以降、メジャーな思想がなくなってしまった。そして、政治の貧困を覆い隠すようにして、今日の世界を原理主義、復古主義の大きな潮流が覆っているように見える。新しい思想、新しい哲学が出現しなくなって久しい。
 サンデル教授の「白熱講義」で有名になったリバタリアン(自由な競争を重視する立場)とコミュニタリアン(共同体的な支えあいを重視する立場)の対立も、所詮一九世紀哲学の蒸し返しにすぎない。そう指摘することは、それに熱気を感じていたひとには気の毒なことではあるが、出現してくるのは、ありとあらゆる時代の思想の蒸し返し、そしてまた近代哲学の復刻版――そうした堂々巡りが、現代、ポストモダンといわれる状況の平凡な情景となっている。
 それであるにしても、である。「近代」のしがらみを捨て、いま一度、この現代思想の諸地層をもっとつぶさに見ていってみるのはどうであろうか。そこに、あたらしい思考が芽生えるきっかけが見つかるという予感はしないか――本書はその試みである。

ツリーからリゾームへ

 入門書の類には、系統樹、すなわち進化論のようにして、それらの思想家名ないし「~主義」の影響関係を結んだ時系列的な一覧表が描かれる。それではまるで「絶滅危惧種」の保護活動のようである。しかし、本書は「思想史」と称しながらも、系統樹も一覧表も一切使用しない。樹木(ツリー)の枝に名札をぶら下げてみても、テーブル(一覧表)のうえに名札を並べてみても、今日の思想状況の、何も分かったことにはならないからである。
 それにしても、系統樹とは、何と旧い思考様式なのであろうか。それは前近代の、血統を重視した「家」の思考ではないか。思想は相互に対立し、のり超えようとすることによって成立する。遺伝したり進化したりするものではないし、まして思考は空欄を埋めるようなことではない。それらは西欧伝統の新プラトン主義的な理解図式にすぎない。そのような旧式な図式で与えられる総花的なリストからは、あたらしいどんな思想も生まれてきはしないだろう。
 系統樹とは、ひとが多様なものを調査して説明するときに使う方式として、古代ではロゴス(比)であったものが、中世でテーブル(表)になり、それが近代でツリー(樹)となったものである。それらに対し、現代思想の代表者ともいえるジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、今日の知はリゾームであると述べている。
 「リゾーム」とは、根茎と訳されたりもするが、レンコンのような地下茎のことである。ルーツ(ルクレーティウスの「リゾーマタ」)のネットワークのことである。訳語としては、「網(もう)」とでもしたらいいのではないかと思うが、たとえば地下鉄の路線図やインターネットのポータルサイトのように、それを使っていろんなところへ行ける「情報網」である。全体像は.みにくいが、そこに「第一のもの」や「正しい方向」はない。  「第一のもの」とは、総合や起源といった近代哲学に基づく権威ある価値のことであり、「正しい方向」とは、デカルトのいった理性としての「ボンサンス」のことであるが、そのようなものがない。
 新奇でむずかしい発想と考える必要はない。地下鉄に乗って何度も乗り換える。その銀色の車体のくねくねとした列が、都市の地下のさまざまな地層を貫いて進んでいく、その地中の暗闇を突進していく 輝く姿を想像しながら、やがて見知らぬ街の見知らぬ小路にふと出くわすために、その地上のあかるみのなかへとのぼっていく――このようにして、いくつもの根源や根拠から現在にいたる道筋を描こうとするのは、近代的発想とは異なるひとつの知の探究なのである。

現代思想の諸地層

 現代思想のそれぞれの思考を知るためにわれわれがなすべきこと、それは何か。現代は、現象学やマルクス主義や精神分析のような、ひとつの思想、ひとりの哲学者の真理でつくされるような状況にはもはやない。まして、だからといって、一部のひとたちがいうように、ただちにわが国伝統の思想にたち還ればすむというような状況でもない。
 本書が採用するのは、地層学になぞらえられた思想の流れと、それに断層を見いだしていく仕方である(そのことの正当性については、本書中で、フーコーの構造主義史観として説明が与えられる)。
 もちろん、一九世紀後半の思想、二〇世紀前半の思想、二〇世紀後半の思想というように、時代順に思想を並べていく方法もある。しかし、それでは単なる思想のリストとして、それぞれの時期の思想の共通性とヴァリエーションとしか見えてこない。
 重要なのはその時期を生きているひとびとの脳裏に生まれてくる発想であり、その表現の変遷である。おなじ言説が違う意味で使われるようになり、違う言説がおなじ意味で使われ続ける。そのありさまを知ることが、その時期の「思考」を理解するということである。
 そうした理由から、生命、精神、歴史、情報、暴力という五つの観点をとって五つの層と成し、それぞれ一九世紀後半くらいの出発点から、現代思想の歴史を五度にわたってさらえなおすことにした。それらの層の記述を順に重ねていきながら、「現代思想」と呼ばれるべきものの、それぞれの意義とその全体像が見えてくるようにしたつもりである。
 それぞれの章に対応するが、その第一の層は、進化論の衝撃から現代の生命政治にいたる生命概念の地層である。他の生物と共通する「生命」の新たな意味が、思想的にも政治的にもひとびとを捉えていく。第二の層は、それが宇宙進化論にまで進むあいだに定義されなおしていく人間概念の地層である。生命に対抗して、宗教や思想を形成してきた.精神.の地位を復活させようとした数々の試みである。第三の層は、そのとき変形されていく歴史概念の地層である。人間の歴史としてではなく、すべてが歴史として説明されるようになる結果として生じた「知」の変遷である。第四の層は、歴史が普遍的登記簿になってだれもが参照利用できるようになったポストモダンの地層である。情報化し、価値の相対化によって生じた現代社会の様相である。第五の層は、人間が新たな使命を与えられながらそこへと消滅していく機械概念の地層である。理性的主体としての「人間」が、社会形成においては「暴力」に囚われていたのに対し、機械との関わりにおいて生きられるようになっていく。
 これらの五つの層のそれぞれに見いだされるのは、社会状況と人間行動の捉えがたさ、混沌と冥(くら) さであるが、それらを重ねあわせてみることによって、この一五〇年の現代思想の重畳した諸地層のさまと、それぞれのよってきた由来や経路を捉えることくらいはできるだろう。
 さらにまた、それらはみな相互に、いくつかの地層を貫く断層によって意外な部分で偶発的に取り結ばれている。それを見いだし、辿り、その思想のいくつかについてなりとも、それぞれが置かれた歴史的状況や政治的文脈を考慮に入れながら思考する糧(かて) にすることができるだろう。また、それらを共通して横切る断層に沿った方向で思考し、そこに相互に連結する根茎(リゾーム) を張り巡らすことができれば、それがあたらしい思想、あたらしい哲学と呼ばれることになるだろう。逆に、それぞれの地層内部でのみ思考するかぎり、それらはみな、思考の袋小路に取り巻かれた「現代思想」にすぎないのである。
 このようにして以下、「現代とは何か」から語りはじめたいと思うが、しかし、その後は章単位、場合によっては順不同で読まれて構わない。この一五〇年の思想全体になじみのない方は、「おわりに」で概観を述べているので、そちらを最初に読まれたらいいかもしれない。あるいは、まず気になる思想の箇所を読み、よく分からないところは読み飛ばし、そのあとで、その章のはじめから読みなおされてもさしつかえない。ただし、思想の地層を見てとってもらうために、いずれ、それぞれの章をはじめから読んでいただければと思う。

 

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