単行本

〈人間らしくやりたいナ〉

『洋酒天国』を創刊した人びと

 昭和三十六(一九六一)年、『洋酒天国』がピークを迎えようとしていたときに、開高健はそれまでの活動の到達点とも言えるような広告コピーを書いた。「人間らしくやりたいナ/トリスを飲んで/人間らしくやりたいナ/人間なんだからナ」である。新聞に掲載されたときには、括弧つきの「人間」と表現されていたが。
『広告批評』を創刊した天野祐吉氏は、『洋酒天国』の持ち味は“知的”で“稚的”、かつ“痴的”であったことだという名言を吐いている。この批評は、すでにスーパーが誕生し、大量生産・大量消費という消費革命が進む中で、あえて人間的なものの細部にこだわろうとした編集の姿勢を言い当てていた。まさしくこの三要素が一体となった遊びの精神と才気溢れる誌面づくりが、企画の隅々にまで行き届いていたのである。 
 昭和三十一年四月に創刊された『洋酒天国』は、同三十九年に休刊するまで六十一号を数えたが、日本を代表するPR誌の一つとして、その名を文化史の片隅にとどめている。創刊して三年目には、山口瞳が中途入社して編集に参加した。私も休刊する前の最後の数年間を、この雑誌の編集に携わることができた。
『洋酒天国』が誕生した経緯は、開高健と柳原良平の入社にまでさかのぼる。彼らは二十四歳で寿屋(現・サントリー)に入社したのだが、役員会議で初めていくつかの企画をプレゼンテーションすることになった。そこではPR誌を発行したいという提案だけが通り、「やってみなはれ!」ということになった。ただし、創刊する雑誌の誌名は『洋酒天国』とすること、と担当の佐治敬三専務(後の社長)から注文がついた。自由にやっていいが、それ以外のタイトルは絶対に罷りならぬというのである。 
 しかし開高も柳原も、この誌名には大いに不満だった。「専務、もっとスマートで魅力あるタイトルがありまんねん」と口をへの字に曲げて反論を試みたが、全権を掌握していた佐治敬三は頑として譲らなかった。酔えば幸せになり、天国にいるような人間らしい気分になる雑誌というのである。
 ところが、いざ雑誌が発売されると、最初は『洋酒天国』という誌名は意外に感じられたようだったが、反応はよかった。開高は待てよ、と思った。佐治敬三はこの誌名によって、「人間らしさ」を基本に据えよと言っているのだ、と感じたのである。
 開高健を中心とした編集部は手ごたえを感じて、それにふさわしい誌面づくりをした。創刊号の巻頭言は開高健が担当し、「昔、西洋の坊さんが人々を慰めるためにいろいろの酒をつくったように、この小冊子も同じ気持ちで編みました」と書いた。そして「読後、何がなし心なごむそんな頁が一頁でもあれば」と控えめに読者に挨拶している。
 創刊号には吉田健一が「呑気話」を書き、雪の研究で知られる物理学者中谷宇吉郎の随筆や写真家木村伊兵衛によるパリの酒場のカメラ探訪が掲載されるなど、知的な遊び感覚に富んだものだった。開高健は創刊したばかりの『洋酒天国』を持って、大阪は北新地やナンバのトリスバーに出かけては、「これは〈夜の岩波文庫〉でんねん」と言って回ったという。評判は上々で、すぐに品切れになった。
 そこで、「知的な遊び」について、である。センスのいいパロディーだという人もいれば、常識を一捻りすることだという人もいる。またある人によれば、生活感覚のある“笑い”で現実を批評し、人々の心をゆさぶることだということになる。けだし『洋酒天国』には、そのすべてが揃っていたように思う。
 私はこの二年余り、偶然の出会いによって生まれた一企業のPR誌を舞台として、どのような“サロン”が形作られることになったかを明らかにしたいと考えて、できるかぎり記憶を辿り、時代背景を調べ、バックナンバーを読み込んできた。私のささやかな体験を通して、昭和三十年代の活気と熱気に満ちた企業文化の一端を伝えることができたら、これほどうれしいことはない。

※この書評は単行本刊行時のものです。

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