ちくま文庫

「今は無い日常」とのめぐりあい

 私がロシア文学と出会ったのは、ほんの一年前だった。アントン・チェーホフ作『桜の園』を題材にした同名の少女漫画の映画化作品に参加させていただき、私は作品の劇中劇で主役・ラネーフスカヤを演じることとなった。映画の台本を読んでから、翻訳された原作本を買いに行った。まず、戯曲を読んだことが無かったものだから、台本のような作りに驚いた。ロシアの呼称の変わる名前の呼び方に戸惑いつつ、今までに読んだことの無い感覚を味わいながら、ゆっくりと読んでいった。読みおえてから、思えば今まで読んでいたのは国内作品ばかりで、海外文学というものをほとんど読んでいなかった事に気がついた。初めてづくしで、どうりでやたら新鮮なはずだった。
 その後、映画監督と顔を合わせた時に買った本も持参したら、「その訳よりも、こちらの訳の方を今回の映画は使うから」と、別の翻訳の『桜の園』をくださった。同じ作品でも、訳が変わるとこんなに雰囲気が違うのか、とまたまた驚いた。その後撮影に入ってからも、二つの本を何度も読み返した。普段は一度読んだら読み返すことが少ない私にとって、『桜の園』は「読み込むことの大切さ、面白さ」を教えてくれた。初見では理解出来なかった部分も、繰り返し読むことで納得出来たり、そして誰かと共有したり話し合ったりすることで新たな発見がある。
 それは散策に似ていると思った。同じ道でも、二度三度と歩くことで違う部分に目がいったり、誰かと共に歩くことで自分の意識していなかった視点に気がつくこともある。
 もしかしたらずっと手に取ることのなかったかもしれない本に思いがけず出会う。そして、その本が紡ぐ縁でさらに違う本や人に出会ったりする。本との出会いは、人生に似ている。
 昨年そんな出会いがあったから、今年は海外文学に挑戦しようと意気込んで、いくつかの小説や海外ルポルタージュを読んでみた。ロシア文学なら、次は何が良いだろう? せっかくだからチェーホフで、一作品目は戯曲だったから、小説を読んでみたい。ロシア文学は難しい、と言う印象がまだぬぐえないものの、短篇集だったら読みやすそう、そんな書評を書かせていただく立場の考えとは思えない、はるかに手前のレベルから『チェーホフ短篇集』を読み始めた。以前刊行された『チェーホフ全集』から訳者が厳選した短篇十二篇が収められていた。
 初めの数篇は驚くほどすらりと読めた。全体を見てみても、最初の方にはあえて短く読みやすい短篇が多いように思えた。きっと「チェーホフを読んでみたいけれど、若葉マークを自ら掲げてしまう」私のような読者に向けても編集しているのだろう。
 チェーホフの書く物語は、チェーホフの時代の「現代劇」、つまり、今から百数十年前の「現代あるいは少し昔の話」である。世界の文化が合流し進化しつつも、未だ伝統も色濃く残っていた魅力的な時代。その時世界の主流であった欧米諸国とも、夜明けを迎えたアジアとも言えない不思議な国。独特の気候や風土の中に培われる独特の豊かさ、独特の貧しさのある国。
 今から百年以上前に生きたチェーホフの「現代あるいは少し昔の話」は、どのみち今の視点から覗けばどれもが「とても昔の話」だ。ただ、本を開けばその世界は当たり前として描かれる。それがとても面白い、と感じた。完璧に理解出来なくても、すらりと読めなくても、各自の解釈があって、それでいいのだろうと思う。時代が違っても、国も文化も違う日常の中でも、人は変わらず出会い、悩み、恋をする。「金のかかるレッスン」のように他人から見れば幼稚で滑稽な愛も、「少年たち」のような若さゆえの情熱も、いつでもどこにでも存在する普遍的なものなのだろう。もっともっと時を経たら、また違う感想を持つかもしれない。この文章を読み返して、何を理解した気になっていたんだ、と自ら呆れるかもしれない。ただ、私は二十二歳でチェーホフと出会い、翌年、また少し親しくなった。これからの付き合いは長いと思う。次はどの本から仲良くなろうかしら。そう思えたきっかけの、一冊だった。

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