単行本

山岡帰府は十二日

勝海舟

 駿府で西郷隆盛と会見した山岡鉄舟が、渡された降伏条件を持ち江戸に戻ったのは、三月十日だと広く信じられている。定説である。駿府の談判が九日だと、これも定説である。駿府が九日で江戸に十日は普通の足では無理なのだが、みなさん苦心して、あるいはあっさりと、十日に帰らせてしまう。
 しかし帰ったのは十二日である。それは越前福井藩の記録に出る。福井藩の江戸藩邸では、三月十二日付の松平春嶽宛大久保一翁書簡を預かって京都へ送るのだが、一翁がこの手紙を書いたときには、まだ山岡は帰っていない。その後で(同じ十二日だが)山岡が帰ったのを福井藩邸の草尾一馬が知り、持帰った降伏条件を写して、先に預かった一翁書簡と併せて発送した。戊辰戦争の真っ只中でも福井藩ルートは安全確実で、運んだものの発着の記録もしっかりと残る。
 そもそも山岡が駿府で、西郷から降伏条件を受取ったのが十日である。最初の顔合せはともかく、降伏条件の授受は十日だった。西郷は同僚参謀の林玖十郎に宛て「先刻」申上げた通りのものを、山岡に渡して江戸に帰らせたと、十日付で報じた。山岡に引受ける権限はなく、持帰って相談の上で降伏か戦争かに決まるだろうとの判断が記入されている。この書簡が十日付なのだ。駿府で十日に受取って江戸に十日は絶対に無理、十二日なら可能で、福井藩の記録と符合する。
 山岡を帰らせた後、すぐに西郷も東に進む。なにしろ十三日には江戸高輪で勝海舟と会見するのである。だが十三日にはまだ徳川方の対案ができていなかった。会見は二日がかりとなり、翌十四日に海舟は、大久保一翁ら参政衆(旗本から若年寄に昇進した徳川家臣団のトップグループ)が作成した対案を田町へ持参する。
 天璋院の使者が江戸城を発したのは十一日、帰城が十三日である。使者つぼねが出掛けた十一日には、まだ山岡は戻っておらず、江戸城は降伏条件を知らない。
 山岡が帰ってから天璋院の使者が出されたと見る向きもあるようだが間違いである。つぼねが出た翌日(十二日)に山岡が降伏条件を携帯して帰着する。つぼねが戻った十三日は、大久保一翁らが対案の作成に苦心中ということになる。つぼね(幾島?)が得た感触は若年寄集団が作成中の対案に心理的影響を与えたかもしれないが、基本は山岡が持帰った条件(七ヶ条)を、どのように徳川有利に書替えるかだった。念を押して置けばその十三日、海舟は徳川方の対案を持たないままで西郷との一日目の会談に赴いた。
 海舟には、一翁ら若年寄が相談して作った対案(海舟は「嘆願」と表現)を暫く手許に保留し、官軍の総攻撃に対する独自の作戦をめぐらせた上で西郷との談判に臨んだという自筆の記録がある。これはウソである。徳川方の対案を手許で保留する余裕はない。会見第一日にはまだ対案ができておらず、二日目にようやく間に合ったのだ。
 海舟は、この種のウソをいくつも書いている。なぜそのようなウソを書くのか、その理由を解明しなければ、海舟の記録は、たとえ自筆文書であっても史料として使えない。解明のためには、この例では山岡の帰府を十二日と確定することが不可欠である。
 山岡帰府を十日とする旧来の説では、海舟の記述がウソのままで何とか(だいぶ苦しいが)使えるのである。それでは歴史叙述の全体に狂いが生じる。現に生じていた。海舟の自筆文書にウソが多いと悟り、なぜそのようなウソを書いたかを解明するために、まず周辺の事実を訂正した。「山岡帰着は十二日」(拙著『勝海舟』三五九頁見出し)は、その一例である。
 山岡を十日に帰らせた刊本『海舟日記』がある。これは海舟がウソを書いたのではなくて、刊本の編者が記述の位置づけを誤ったのである。海舟自身は山岡が何日に帰ったのかを忘れた状態で日記の当該部分を書き、日を決めなかったのだ。そういう記録不得意の海舟についても、この一例関連だけでなく、拙著の全体で詳しく論じた。

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