単行本

東京のカナリア
小林信彦著『私の東京地図』

 本書『私の東京地図』の著者、小林信彦は、東京にとっての「カナリア」だと、思う。もちろんここでいうカナリアとは、変化や災禍をいち早く察知し警告する存在という比喩だ。たとえば以下に紹介する文章が書かれたのは十年以上前である。

 それにしても、東京をおもちゃにし過ぎた。岩盤の上に建っているニューヨークとちがい、隅田川ぞいに超高層マンションを建てるなど、正気とも思えない。(中略)ものごころついた時から、関東大震災の怖さを吹き込まれた身としては、そろそろかな、と思わぬでもないのだが。(『昭和の東京、平成の東京』)

 著者は、世の中の動きに引きずられたり、おもねったりすることなく、嫌なものは嫌、悪いことは悪いと言いつづけてきた。著者が発信した直後は、読者はその意図を訝しんだり、真意を読み取れなかったりしたことも少なくない。何年も経って、ようやく著者の発したひとことの意味を噛みしめることがどれほどあったことだろう。著者のエッセイが、時が経つほど古典としての輝きを放つのはそのためかもしれない。
 戦前の下町に生まれ育った著者が、戦後は山の手へ移り住む。それゆえ著者の東京論には、下町、山の手双方の視点が両立するしなやかな強さがある。シニカルな中に過去の東京へのいいしれぬ懐旧がかいま見えるのは、たぶん「住み易い村を失った人間が、村の想い出をしつこく書くのに等しい」(七ページ)心情からなのだろう。
 たとえば戦後の青山の暮らしぶりと、東京オリンピックを契機とした大変貌の描き方。その町の住民の声や匂いまで感じさせてくれるのは、今や著者にしかできない芸当だと思う。
 代々木練兵場がワシントンハイツという名の「米軍のカマボコ型兵舎の群れ」になったから、表参道まで米兵の家族が散歩におりてきて、玩具店〈キデイランド〉や東洋風お土産の店〈オリエンタルバザール〉ができたという話など、いわれてみれば合点するが、今の風景しか知らぬ者には新鮮な警きだ。
「西口の発展を別にすれば、新宿ほど昔と変らぬ街はないのではないか」(八九ページ)という指摘など、ずっと東京を歩いてきたからこそにじみ出る言葉だろう。たいていの“昭和本”“東京本”の類は、「すっかり変わった」か「まったく変わらない」かの二分法でしか語っていない。乱暴な書きっぷりが横行する背景は、つまりは昔の町を歩いていないからなのである。
 ライトが設計した日比谷の帝国ホテルや戦前のままの優雅な内装の三信ビルが消えたことを惜しみつつ、「この五十年間の破壊は米機によるものより非文化的だと確信する」(一〇七ページ)
「私のように戦前の人形町を覚えている人間から見ると、〈ちょっとちがう〉のだが、それは仕方がない」(一七四ページ)
 吉良邸討ち入りを「この屋敷での虐殺」(一七五ページ)と表現したり(三河人たる私には、よくぞ言ってくれたとの思いがある)、「スカイツリーを何のために建てるのかさえ、私にはよくわかっていない」(一七八ページ)と指摘するなど、著者でなければ言えないし、またできないことだろう。土地がらみ施設がらみの言説に関して、現代ほど不自由な時代もあるまい。
 バブル当時に横行していた東京の「地上げ」。人々が評価を決めかねていたこの行為を「町殺し」とはっきり言いきったのは、著者だった。その炯眼は、まったく衰えていない。
 かつて東京には町ごとに匂いがあった。空気が違った。そうした時代を、実感をともなって書き分けられる人が、昨今めっきり少なくなった。著者はもちろんその数少ないひとりである。
 それなのに著者はまえがきの冒頭で平然と言ってのける。
「私は東京をあまり知らない」
 まったく油断がならない。

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