ちくま新書

世界は意味と価値のモザイク

日本のドラッグストアが中国人観光客に人気のわけは? インドネシアでポカリスエットが大人気に? 台湾の吉野家にカウンターがない理由は? 日本企業のアジア進出の成功と失敗の豊富な実例から、アジア市場の論理が見えてくる! 9月刊『消費大陸アジア』の序章を公開します。

目に見える適応化と見えない適応化
 
以上が、国際マーケティングあるいはグローバルマーケティングと呼ばれる領域で起きてきたことの大まかな経緯である。端的にいうなら、標準化と適応化のバランスをどう図るのかが1960年代以来の各企業と研究者のテーマであり、その葛藤はかたちを変えつつも現在に至るまで継続しているのである。
 とはいえ、何をどこまで標準化し何をどこまで適応化させるのかの判断は、実際にはかなり難しい作業である。筆者は、ある消費財メーカーの海外駐在員の方から、次のような疑問をぶつけられたことがある。
「学者先生のいう標準化と適応化のバランスという考え方の基本はよく分かります。でも、そもそも何が標準化で何が適応化なのかって微妙ですよね。商品の見かけは日本とまったく同じでも、日本では安い大衆品として売っているものを、こちらでは所得水準の関係で高級品として売らざるを得ませんので、同一の商品でも消費者へのイメージづけは日本とはかなり異なります。それは標準化なのか適応化なのか、どちらでしょうか」
 また、別の企業の海外駐在員の方からは次のような疑問もぶつけられた。
「要するに、目標はその商品の価値や利便性をこちらの消費者にどう理解してもらうかということであって、必要あれば商品の名前やパッケージデザインも変えることになる。そのままの方がよければ変えません。それだけのことです。つまり、商品や売り方を適応化させるかどうか(変えるか変えないか)は、目標達成のプロセスで生じた結果に過ぎないと思います。ですから、それが標準化か適応化かなんてどうでもいいのです。私が知りたいのは、どうしたら商品の価値がこちらの消費者に伝わるのかということです」
 この言葉からは、国際マーケティング論が抱える重要な課題が読み取れる。
 標準化と適応化の区別は、これまでは主に観察可能なもの、目で見える範囲のもので判断されてきた。つまり、商品のデザインや機能、仕様、販売手法などを変えたのか、変えなかったのかが基準となっている。しかし、標準化と適応化には、目では観察できない次元のものもある。
 そもそも企業がめざしているのは、その商品や店舗スタイルが価値あるものとして受け止められること(価値が現地の消費者に理解されること)である。しかし、その場合の価値の内容は、日本と同じものとは限らない。たとえば、日本からソーラー充電式の懐中電灯をある途上国市場に持ち込んだとしよう。日本ではそのハイテク性や耐久性が評価され、非常時の便利商品として意味づけされたが、その途上国市場では非常時だけでなく、もともと電気がない日常の場面で使えることが評価され、「電灯代わり」の商品という意味づけを得て、そこに「価値」が見出されて売れる場合もあろう。
 その場合は、外見を一切変えなくても、消費者に対して「電灯代わり」という意味を強調したマーケティングを行えば、それで大きな市場が拓ける場合もある。これは、外見的には標準化であっても、意味づけの次元では現地市場への適応化が行われたこととなる。
 筆者は、国際マーケティングの現場が求めているのは、実はこのような意味づけの次元での標準化―適応化問題の研究ではないかと考えている。本書の議論の焦点は、まさにこの問題を検討することである。そこで、この問題についてもう少し具体的に説明していきたい。

意味と価値の次元へ
 
マクドナルドは今や100か国以上の国々に店舗を構え、同じM型アーチの下で、同じ運営マニュアル(手法)に沿って、一部のご当地メニューは除いて、かなり統一されたメニューを提供している。この点では標準化戦略をとっており、しばしばグローバル化の象徴とみなされてきた。しかし、このようなマクドナルドでも、意味と価値の次元から捉えなおすと、まったく別の姿を現す。
 たとえば、アメリカ人にとってマクドナルドは、高級感はないが、安くて味にも安心感がある店という意味が強い。昼でも夜でも、一人でも子供連れでも、どんな格好をしていても気兼ねなく入れ、チップも必要が無い貴重なレストランなのである。アメリカでは、ディナータイムは子供が入れないレストランも多いし、服装などのコードにも気を使わねばならないからだ。
 一方、インド人におけるマクドナルドは少し高級で洒落た店であり、そこでの食事は週末の家族の楽しみ、ハレの食事の場という意味を持っている。マクドナルド側も、自らをファミリー向けのレストランとして宣伝している。また、中国のマクドナルドは、若者や子供に人気があるファーストフード店という意味を超えて、一人っ子政策の下で大切に育てられた子供が誕生日のパーティーを開く店(開いてみたい憧れの店)という特別な意味を付与されている。事実、多くの店舗がパーティールーム(個室)を備えており、そこで誕生会を開いて友人を呼ぶことが子供や親の憧れでありステイタスともなっている。いわば、そのような価値を提供する場としてマクドナルドというレストランは存在しているのである。
 このように、マクドナルドは各市場においてまったく異なる意味を付与され、異なる価値を消費者に提供していることが見えてくる。我々が検討すべき課題は、どうやら目での観察が難しい、意味と価値の次元に隠されているといえるのである。

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