「せとのママの誕生日」

せとのママの誕生日
『早稲田文学増刊 女性号』より

いま最注目の作家・今村夏子さんの新作短編をWEBちくまで特別公開します。うらぶれたスナック「せと」のママの誕生日を祝うために集まった3人の元従業員。彼女たちがとりとめもなく語りだすママの思い出話の行く先は……。後は「読んでください」としか言いようのない今村夏子新境地。小説でしか表現できない世界がここにあります。

 あのころはみんな若かったね、と、どんなエピソードが持ち上がっても、最後はそのひと言に落ち着いた。ママの手伝いをしていた当時、わたしたちみんな十代だった。最後のお客さんが帰ったあとに、朝五時から開いている銭湯にいき、つやつやの肌をタオルで覆い隠すことなく、タイルの上を闊歩した。体も洗わずに、ドボンとお湯のなかに飛びこむと、貸し切り状態の湯船のなかで歌をうたったりバタフライをしたりと、それはそれは元気だった。
 「あんたたちはそうだったかもしれないけど」と、アリサがいった。「わたしは違った」
 「あれ? 一緒に泳がなかったっけ?」
 とカズエがきいた。
 「泳いでない。歌もうたってないし。それに裸を晒したりなんてしなかった。ちゃんとタオルで隠してた」
 「そうだったけ?」
 「うん」と、アリサはうつむくと、そっと自分のお腹に手を置いた。「わたしでべそだったから」
 そうだった。
 アリサはでべそだった。アリサのへそは生のマッシュルームそっくりで、ポコンと体の前にとびだしていた。体を洗っている時も、湯船に浸かっている時も、決して腰に巻いたタオルをはずそうとしないのは、有名な話だった。なんでずっとタオル巻いてんの? と誰かがたずねたとき、笑わないでね、と前置きしたあと、アリサは腰に巻いたタオルをとった。
 「ひどーい。笑わないっていったのに!」
 アリサはみんなの反応を見て、すぐにタオルを巻き直した。
 笑ってない、笑ってない、でもすごいね、立派なでべそ、もう一回見して。
 「いや。もう見せない」
 そんなこといわないで。もう一回だけ、お願い、ちょっと待って写真撮るから、うそうそ、冗談、怒んないでよ。やだ泣かないで。
 アリサは目に涙を浮かべて、自分のへそを笑う人間をにらみつけた。
 「ゆるさない。ママにいいつけてやるから」
 アリサは本当にママにいいつけた。アリサの報告をきいたママは、銭湯にいったメンバーを呼びつけて、怖い顔で叱り飛ばした。「あの子のでべそを笑うんじゃない」
 すいませんでした、アリサちゃんごめんなさい。
 「あれはあの子の大事な商売道具なんだよ」
 店のフロアで土下座させられながら、商売道具? どういうことだろうと事情を知らない子たちは首をかしげた。
 アリサの商売道具については知っている子と知らない子がいた。わたしはうわさでその話をきいた。
 アリサは、一回五百円でお客さんにでべそを見せていたのだ。合言葉は「平等院」「鳳凰堂」。お客さんと二人、トイレに立つふりをして、他の人間からは死角になる柱のかげで見せていたから、気づかない子がいてもおかしくなかった。アリサのでべそを拝むと出世するといううわさが、お客さん同士のあいだでまことしやかに流れていた。そんな根も葉もないうわさを流したのは、もちろんママだ。
 ママは、入店当初、服装が地味だったアリサにもっと派手に、もっと露出を多くしろといっていた。谷間を見せろ、肩を出せ、へそを出せ、足を見せろ。いわれた通りにキャミソールやミニスカートを着用したアリサだが、へそが見える衣装だけはかたくなに着ようとしなかった。なぜへそを出さない、とママに問い詰められて、アリサは泣きながら腹巻をめくり上げた。
 ママはアリサのでべそを見ても笑わなかった。それがアリサにはおどろきだった。子供のころからずっと笑われ続け、ばかにされ続けてきて、それが自分の体に対する当たり前の反応だと思っていたから。
 ママはマッシュルームそっくりの、生白いへそを指でつつくと、少し考えるようなそぶりを見せて、「これ、一回いくらなら人に見せれる?」ときいた。アリサが「お金もらっても見せたくない」と正直にこたえると、ママはギュッとマッシュルームをつねった
 「痛い」「五百円だ」「ママ痛い、痛い」「いいね、一回五百円」「痛い……」「わかったか」「わかりましたから離して」
 この日を境に、「一重まぶたの地味な女の子」が、「すごいでべそを持つ女の子」として生まれ変わった。
 表向きには五百円ということになっていたけど、お客さんのなかにはこっそりおこづかいを渡す人もいた。本当に出世が叶った、きみのおかげだ、といって、アリサに高級腕時計やバッグをプレゼントしたお客さんもいた。うわさがうわさを呼び、でべそ目当ての客足はどんどん伸びた。本人はばれていないと思っていたかもしれないが、アリサだけミニボーナスをもらっていることを他の女の子たちも知るようになっていった。
 ママのナイスアイデアによって日の目を見たでべそだが、良いことばかりではなかった。わたしたち普通のへそを持つ凡人には知られざる苦労があったらしい。神社の敷石をこっそり持ち帰ったり、仏像にらくがきをしたりする罰当たりな人間がいるように、アリサのへそをつかんで持って帰ろうとしたり、らくがきしようとするお客さんがちらほらとあらわれた。
 「らくがき一回千円だよ」
 マジック片手にアリサに襲いかかろうとするお客さんに向かって、カウンターのなかからママが叫んだ。ママにそういわれれば、素直に千円払うのが、せとのお客さんたちだ。時には千円といわれて一万円払うお客さんもいた。お客さんというか酔っ払いというか。
 「並んで! 並んで!」
 もう合言葉は必要なかった。アリサの周りにできたひとだかりをママが整理した。五百円玉や千円札を握りしめたお客さんたちは、自分の番がくるとママの手にお金を渡すか、直接アリサの顔に投げつけるかした。アリサの持ち物が豪華になればなるほど、ママの懐にお金が入れば入るほど、アリサの顔には赤いあざが増え、でべそは傷だらけになった。
 とある夜の、アリサの自宅。いつまでたってもお風呂から上がってこない娘を心配したアリサのお父さんが、ドアの向こう側から声をかけた。アリサは泣きながらドアを開け、血だらけのでべそをお父さんに見せた。
 アリサのお父さんは自分を責めた。アリサのお母さんが自宅の台所でアリサを産み落とした時、手近にあったキッチンばさみでへその緒をちょん切ったのはお父さんだったからだ。
 「手術しよう」とお父さんはいった。アリサの家は貧乏だったが、当時はお父さんが競艇で一発当てたところだった。アリサはでべその手術をした。手術は二時間におよんだ。麻酔から目覚めると、アリサは普通の、わたしたちみたいな、おもしろくもなんともないへそになっていた。何の手ごたえもないお腹をなでたとき、アリサの目からは涙がこぼれた。何の涙か、自分でもわからなかった。
 ママは怒った。大事な商売道具を店の許可なしに無断で処分したのだから、当然といえば当然だ。手術で切り取ったでべそをもういっぺんつけなおせといった。
 そういわれても、アリサには、切り取ったでべそが今どこにあるのかもわからなかった。
 「病院にあるだろ、手術した病院に」
 ママがいうので、アリサはその場で病院に電話してきいてみた。
 「……捨てたっていってる」
 アリサは泣きそうな顔でママに報告した。
 探してこい、とママは怒鳴った。見つけるまで戻ってくるな。
 アリサは店を出ていき、そのまま戻ってこなかった。

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