「せとのママの誕生日」

せとのママの誕生日
『早稲田文学増刊 女性号』より

いま最注目の作家・今村夏子さんの新作短編をWEBちくまで特別公開します。うらぶれたスナック「せと」のママの誕生日を祝うために集まった3人の元従業員。彼女たちがとりとめもなく語りだすママの思い出話の行く先は……。後は「読んでください」としか言いようのない今村夏子新境地。小説でしか表現できない世界がここにあります。

 あれからずいぶん年月が流れた。ターさんは死んだが、ターさんのせんべいは今も日本国民に愛されている。コタツの上に並べられたお菓子のなかには、ターさんの会社から出ている商品がいくつか混ざっていた。
 カズエは缶チューハイの残りひと口を飲み干すと、フッとため息をついてカセットデッキに手を伸ばした。音楽はとっくに鳴り止んでいて、部屋のなかは無音だった。「B面には何が入ってるの?」巻き戻しのボタンを押そうとしているカズエに、わたしはたずねた。
 何も入ってない。そういっておいて、カズエは巻き戻しのボタンを押さずに、カセットを一度取り出すと、ひっくり返してB面をセットした。再生のボタンが押されて流れてきたのは、ただの無音だった。わたしたちはしばらくのあいだ、きこえない音に耳をかたむけた。
 しいたけに頰を寄せていたアリサが、何かを思い出したように、ふと顔を上げた。
 「クビになったあと、どうしてた?」
 わたしもそれをききたかった。
 「旅に出てた」
 とカズエはこたえた。
 「旅?」
 「うん、乳首を探す旅」
 わたしとアリサはそのこたえに、アハ、と笑いかけて、口を閉じた。カズエが冗談をいったのではないことは、その目を見て理解した。
 「見つかったの? その……」
 「乳首? うん見つかった」
 「どこにあったの?」
 「それがね、きいてよ」カズエは照れたように笑った。「なんと、冷蔵庫のなか」
 「冷蔵庫って、お店の?」
 「ううん。自分ちの。ばかみたいでしょ。何のために今まで苦労してたんだか。パスポート取って海外までいったんだよ。初海外。でもいっくら探しても見つからなくて、あきらめて家に戻ったら、あったんだよね。牛乳冷やそうと思って冷蔵庫開けたら、ドアポケットのところに」
 「今日持ってきてる?」
 「もちろん。ママに見せなくちゃ。なくしたときすごく怒ってたから、見つかったっていったら許してくれると思うんだ」
 「見せて」
 アリサが手を差しだした。
 「今? ちょっと待って」
 カズエはリュックのなかを探ると、透明な袋を取りだした。
 こたつに置かれたその袋を見て、わたしとアリサは顔を見合わせた。袋には「カリフォルニアレーズン」と印字してあった。食べかけなのか、開いた口が輪ゴムでしばってあった。
 「旅に出てるあいだに色も形も変わっちゃったけど」
 「……すごくたくさんあるのね」
 「乳首は二つだけよ。誰だってそうでしょ?」カズエは笑いながら輪ゴムをはずし、たくさんある粒のなかから二粒だけつまんで取りだした。「これとこれ」
 コタツの上に置かれたそれはどう見てもレーズンだった。アリサはすでに興味を失ったのか、しいたけのひだの数を数えはじめている。
 ママが起きたらこの二人を見て何というだろう。かわいそうにと嘆いてくれたらいいが、ママのことだから、やりなおし!といってもう一度探しにいかせるかもしれない。
 時刻は夜十時を回った。わたしたちがここにきてからすでに二時間が経過した。ママはよく眠っている。そろそろ目を覚ましてくれても良いころだ。こちらはとっくに準備万端で、アリサもカズエも早くハッピバースデーをうたいたくて、そして探してきた体の一部をママに見せたくて、さっきからうずうずしているというのに。わたしはこたつからはみ出ているママの裸足の足の裏をくすぐった。起きない。
 カズエがわたしの真似をして、ママのわきの下をくすぐったが、起きない。アリサもしいたけを置いて、ママの首すじに息を吹きかけたり、耳の裏側をくすぐったりした。
 「起きないね」
 わたしはママの両わきに手を差し入れて、ママの体をこたつのなかから引っぱりだした。ママの胸、お腹、わき腹、太もも、二の腕、手のひら、三人で約三十分間、全身くまなくくすぐり続けたが、効果はなかった。年を取ると体のあらゆる感覚が鈍るというが、その通りだ。触れても、話しかけても、顔の前でおならをしても、ママは目を覚まさなかった。
 一旦休憩。アリサが店内から人数分のおしぼりを取って戻ってきた。わたしたちはママの体を囲んで座り、新しい缶チューハイを開けた。しばらくは誰も口を開かなかった。カセットデッキのテープはとっくに回転を終えている。チューハイ片手に、ボーとママの寝姿を眺めていると、自分たちが流れる時間のなかにいることを忘れてしまいそうだった。
 最初に動きを見せたのはカズエだ。おもむろにこたつの上に手を伸ばすと、先ほどのレーズン二粒をつまみ取り、何を思ったか、それをママの胸の上に置いた。そっと左右に一粒ずつ、しかるべき場所に。そして「うん」とうなずいた。
 そのようすを黙って見ていたアリサも、こたつの上に手を伸ばした。干からびたしいたけを両手で胸の前に持ち、一瞬ためらう素振りを見せたが、カズエと同じように、まるで献花でもするみたいに、ママのちょうどへそのあたりに、そっと置いた。
 カズエとアリサはしばらくママの体を眺めていた。やがて顔を上げると、二人揃ってわたしのほうを振り向いた。
 わたしは首を横に振った。見つめられても、困る。
 二人はわたしから目を離さなかった。その視線に耐え切れなくて、わたしは仕方なくこたつの上に手を伸ばした。そしてたまたま近くにあった酢コンブを一枚、つまみ取った。
 わたしはママの全身を見渡した。どうしよう。どこに置けばいい? 二人はわたしの指先に注目していた。迷った挙句、わたしはつまんだ酢コンブを、ママのほとんどない眉毛の上に、重ねて置いた。わたしの手の熱で湿り気を帯びた酢コンブは、ぺたりとママの肌に吸いついた。チラと二人を見ると、満足気にうなずいた。ホッとしたのと同時に、わたしのなかに意外な感情が湧き上がってきた。それは懐かしさのようなものだった。酢コンブを置いた時、わたしはハルカのことを思い出していた。
 ハルカは眉毛の濃い女の子で、それが彼女の商売道具だった。ただのゲジ眉の女の子を、じゃんけんゲームの人気者に仕立て上げたのは、もちろんママだ。じゃんけんゲームのルールは単純で、女の子同士でじゃんけんをして勝ったほうが負けたほうの眉毛を剃る、ただそれだけだった。ママは女の子のなかでも特に眉毛の濃い子を選抜メンバーとして指名した。最初から眉毛のない子を使うより、そのほうが盛り上がるからだ。ハルカはいつもじゃんけんに負けていた。元は黒くて極太の眉毛の持ち主だったのが、しょっちゅう剃られているうちに、とうとう新しい毛が生えてこなくなった。
 ママは怒った。しばらくはようすを見ていたが、もう二週間、つるつるの顔で出勤しているハルカに、よくその顔で毎日店に出てこれるものだとののしった。眉毛のないハルカは、ハルカではない。毛が生え揃うまで自宅待機を命じられたハルカだが、その後、店に姿をあらわすことはなかった。
 ハルカもまた、失った眉毛を探す旅に出たのだろうか。
 アリサがこたつの上からもう一枚、酢コンブをつまみ取った。わたしが貼りつけた左側と同じ高さになるように、左右見比べながら慎重な手つきでママの額にのせようとした。だが小刻みにふるえる酢コンブは、思った通りななめに貼りつき、ママは困っているような顔になった。
 アリサが酢コンブと格闘しているあいだ、カズエは台所から乾燥ひじきとアーモンドの袋を取ってきた。アリサの横に腰を下ろすと、アーモンドを一粒、ママの閉じた右のまぶたの上にのせた。もう一粒は左まぶたの上にのせた。そしてひじきの袋をやぶり、少量だけ手に取ると、先ほどのせたアーモンドのまわりを囲むように、一本一本丁寧に並べていった。出来上がったアーモンドの瞳とひじきのまつ毛を、カズエは感慨深げに眺めていた。わたしが酢コンブの眉毛からハルカを思い出したように、カズエもまた誰かの瞳を思い出しているのかもしれない。
 困り顔のママの眉毛に納得のいかないようすのアリサだったが、ある程度いじったところで、あきらめたようだ。再び台所に立ち、今度はおぼんの上に色々のせて戻ってきた。アリサと入違いにカズエも立ち上がり、やはり食料を抱えて戻ってきた。二人はもくもくとママの体に食べ物を並べていった。ママの顔は起伏の少ないのっぺりした顔なので、基本的にはうまくのせることができた。凹凸のある場所に置く時は、ピーナッツバターで土台を作ってからその上にのせた。一か所に数種類の食材が重なることもあった。たとえば酢コンブの眉毛の上に枝豆がのせられ、その上にお好みソースが絞られた。アリサが右の頰にハムをのせ、カズエが左にトマトの輪切りを置いた。ピーナッツバターを右耳にたっぷり塗ってから、アリサは冷凍のぎょうざを貼りつけた。左の耳にはカズエがすでにきくらげを貼りつけていた。お互いに腕を伸ばし手を交差させ、ぎょうざの上にきくらげを、きくらげの上にぎょうざを置いた。一度置いたレーズンをわきへどけて、左右の胸に丸餅を二つ並べて置いた。アリサのしいたけがちゃんと立つように、ここでもピーナッツバターの土台が役に立った。
 すね毛のひじきが足らなくなった。わたしはひょっとしたら、と思い、店のほうのキッチンを探りにいった。案の定、戸棚の奥から業務用の袋が出てきたので、それをカズエに手渡した。
 「あった!」とアリサが叫んだ。店の冷蔵庫の扉を開け、なかに頭を突っこんでいる。
 「シホのくちびる!」こちらに掲げて見せたのは、北海道産のたらこだった。冷蔵庫のなかからは、ほかにもユミの指やアカリの舌やナナコのあごが見つかった。
 わたしが流しの下に落ちていたノリカの爪をママの爪の上に重ねて置いているあいだ、アリサはサキの髪の毛をママの頭の上にセットした。そのあいだ、カズエはピンセットを使ってエツコの体毛を一本一本マナミの皮膚に植えていくのに忙しい。ねえ、そこの、サユリの骨盤とって。わたしがいっても通じなかった。わたしにとってのそれは、他の二人からしてみればマミの心臓であり、ユカコの頭蓋骨でもあるからだ。
 どのくらい時間がたっただろう。気がつけば、ママの体はせとの女の子たちの体の一部に覆われていた。それはママの体に違いないのだが、一方で、ユミの体であり、カオリの体であり、キョウコの体でもあった。もちろんアリサの体でもあり、カズエの体でもある。
 アリサが赤く発光している物体を手に取った。目の前の体には、もう一分の隙もない。これを一体どこに置くのかと思っていたら、わたしの目の前に差しだした。
 「わたし?」
 「あんたのじゃないの?」
 わたしは首を振った。「違う」
 「じゃあこれ?」
 カズエが両手で持っているのは、どろっとした黒いかたまりだった。
 「違う」
 「これは?」
 茶色の液体。「違う」
 「これ」
 金色のハート型。「違う」
 アリサとカズエは困ったように顔を見合わせた。「じゃあ、どれ?」
 こたえられなかった。
 わたしのなくしたものは、冷蔵庫のなかにはなかった。戸棚の奥にも、こたつの上にも、コンロと壁のすきまにもない。
 「困ったな」
 「一緒に探そう」
 「このへんのどこかにまぎれこんでるんじゃない?」
 わたしたちはトモミの太ももをどかし、クミの目玉をはずし、シオリの皮膚をめくっていった。だが、そこにはママの空洞がひろがるばかりで、わたしのなくしたものは、やはりどこにも見当たらなかった。
 三人とも汗びっしょりになっていた。アリサが新しいおしぼりを取りにいき、戻ってきた。ひとまず休憩。わたしたちは何本目かの缶チューハイを開け、同時に飲んだ。
 時刻は午後十一時四十五分、三十三秒。ここにきてから三時間と四十五分が経過した。いつから寝ているのか知らないが、いくら何でも起きなさすぎではないだろうか。
 わたしはナツミとマキとケイコの目をどけて、ママのまぶたをこじ開けた。瞬間、瞳孔がシュッとちぢんだ。
 「生きてるの?」
 「まだ生きてる」
 ママが目を覚ますまで待つと決めている。
 時刻は午後十一時四十七分、十三秒。
 時計の針を見ていたアリサが、大きなあくびをしたあと、ポリポリポリと頭をかいた。
 わたしはチューハイの缶を置き、カズエの乳首に手を伸ばすと、一粒つまんで口に入れた。
 カズエは一瞬、「あ」という顔をしたが、すぐに袋のなかから一粒取りだし、なくなった場所に補充した。
 時刻は午後十一時五十九分、四十九秒、五十秒、五十一、五十二、五十三……。もうすぐ誕生日が終わろうとしている。


                 初出:『早稲田文学増刊 女性号』(2017年9月刊)

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