ちくま学芸文庫

エーリッヒ・フロム『悪について』の新訳に寄せて

1月刊行のちくま学芸文庫『悪について』(エーリッヒ・フロム著、渡会圭子訳)より、文庫版解説を公開いたします。本書『悪について』は、『自由からの逃走』『愛するということ』に連なるフロムの代表作の一つであり、日本でも長く読みつがれてきました。その今日的意義と魅力について、社会学者の出口剛司氏が論じます。

 ではそもそも、人間はなぜ悪に向かうのか。フロムによると、人類には時代を超えたただ一つの、すべての人間に共通する普遍的課題があるという。それをフロムは「孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したい」という欲求(を満たすこと)だと言う。なぜ、人はそのような欲求にとらわれるのか。むろん都市化、近代化、グローバル化など、社会学的要因も無視できない。しかしその一方で、フロムはそれを人間の本質、存在の仕方(偶然性)そのものに求める。社会学的要因はそうした存在条件を時に緩和し、時に強化する外的な作用を及ぼすにすぎない。
 フロムによると、人間は自分の意志とは無関係にこの世に存在し、また自分の意志とは無関係にこの世を去らねばならない。どこから来たのか、どこへ行くのか知ることなく、サイコロの目のように偶然、たった一人でこの世に生を受け、やがてたった一人で人生という舞台から去る。また、人間には他の動物にはない意識(理性)がある。意識と理性は人に自分が周囲とは違った存在であること、他の人間との間には越えられない壁があること、そして、どんなに親しい人とも、この世で出会った人とはいずれ別れなければならないこと、そうしたことを知らしめる。こうした、消せない染みのような意識が人を激しい孤独感、不安感、無力感へと追いやる。それらの感情は、時として人間の生死を超えるほど強烈なものとなる。フロムによれば、善(愛、バイオフィリア)と真の悪(本書で言うネクロフィリア、ナルシシズム、共生的固着)は、そうした問いそれ自体に対して人間が出す、二つの相異なる答えなのである。だが、これら二つの選択の中から、われわれは悪に向かわず善を選ぶ自由を有しているのか、あるとすればそれをいかにして手にしうるのか、そして善と悪とはそもそもいかなる関係にあるのか、これらの問いに対する答えが本書後半部の主題である。

 最後にこれからフロムについて学ぼうとする人々に向けて書かせていただきたい。ドイツのチュービンゲンにはフロムの遺稿を管理するライナー・フンク博士が所長をつとめる国際エーリッヒ・フロム協会(International Erich Fromm Society)があり、フロムに関連するワークショップや国際会議を主催している。フロムの著作や関連する研究書も取りそろえられている。同協会の詳細はホームページを参照されたい。2014年、ベルリン国際精神分析大学に世界中のフロム研究者が会し、三日間に及ぶ熱い議論が戦わされた。2018年には第二回の国際会議が予定されている。そして世界中で専門的な研究書も、絶えることなく刊行され続けている。
 一橋大学の学生だったころ、『自由からの逃走』を初めて手にとった。当時指導教官だった社会心理学の佐藤毅先生に「いまごろ、フロムの研究をするなんて、変ですか?」と尋ねたことがある。先生は「いや、全然そんなことはない」と即答された。東京大学大学院に進学し熱心にハーバーマスを読んでいた私に、大学院時代の指導教官であった庄司興吉先生は、少し残念そうに「もう、フロムはやらないのか?」と尋ねられた。私が院生だったころは、社会学にもポストモダニズムの嵐が吹き荒れ、自由、疎外、理性、愛について堂々と語れるような風潮ではなかったのである。しかし、私が選んだ学位論文のテーマはフロムの前期、中期思想であった。研究者になって、日本における先駆的なフランクフルト学派研究者で、フロムの学位論文にまでさかのぼって初期フロムを研究された徳永恂先生(大阪大学名誉教授)が、自分はこれからは「後期のフロムに可能性があると思う」というお便りを下さった。本書は、そうした後期フロムの思想を代表する著作であることを確認しておきたい。
 間もなく死後四十年を経過しようとしているが、フロムの人気は依然として高く、そのアクチュアリティはいまだ汲み尽くされてはいない。本書の刊行をきっかけに、また新たにフロムからのメッセージを受け取る人が現われることを期待したい。

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