からだは気づいている

第1回 掛け声の謎

日ごろ私たちが無意識に行っている様々な動作には、実は精妙なプロセスが潜んでいます。 人間行動学者の細馬宏通さんが、徹底した観察で、さまざまな日常の行動の謎を明らかにする連載、 第1回のテーマは「掛け声」です。

机を運ぼう
 こういうとき、頭の中で想像しているだけでは、考えは袋小路に入ってしまう。のちに詳しく述べるように、わたしたちは自分が何気なくやってしまえることをそれほどうまく意識しているわけではないし、他人とのやりとりとなると、記憶はさらにあやふやになるからだ。
 まずは実際に、人が机を運ぶところを観察してみよう。直径90cmほどの丸テーブルを1つ用意する。重さは20kg弱で、2人で持ち上げて部屋の中を移動するだけならさほど負担ではない。4本の足の下に目立つようにマークを張り、少し離れたところに、移動先のマークを4つ張っておく。30人の学生に15組のペアを組んでもらい、テーブルの前に立ってもらってから、それぞれのペアに「この机をこの印しからあそこまで移動して下さい」とお願いする。2人の声を別々に録音したいので、ワイヤレスマイクをつけてもらう。
 さて、あとは何も指示は出さない。2人がテーブルのどこを持つか、お互いにどんな合図を出すか、どうやって運ぶか、すべて自由だ。案の定、どのペアも、お願いしてからものの10秒足らずでテーブルを移動し終えてしまった。「え、これだけですか?」とあまりの作業の少なさをいぶかしんだ人もいた。
 しかし、この作業がごく短時間で成し遂げられるということ自体は、さほど問題ではない。問題は、先に述べた3つの問題、掛け声の選択・開始可能点・スピードがどのように扱われたかだ。

机を持ち上げる掛け声
 まず、机を持ち上げるときの掛け声についておおまかな観察結果を見てみよう。
 15組中、あらかじめどんな掛け声をかけるかを打ち合わせたペアはいなかった。そして机を持ち上げる際に少なくとも片方が「せーの」を発したペアが10組、「おう」が1組、「はい」が1組だった。「せーの」が多い結果となったわけだが、これがどれくらい一般的な傾向かは、もう少しさまざまな文化や世代、そしてさまざまな運搬の場面でやってみないとわからない。ちょっと驚くのは、両者とも無言で持ち上げたのが3組いたことだ。彼らが声以外の何を手がかりにお互いに机を持ち上げたか(あるいは持ち上げ損なったか)については、あとで取り上げることにしよう。
 さて、この簡単な実験で注目したいのは、2人がどうやって打ち合わせなしに掛け声をそろえて出し、同時に机を持ち上げたかである。結論を先に書こう。コンマ秒単位で見ると、全く同じ掛け声を同じタイミングで発しているペアはなかった。また、ほとんどのペアで持ち上げ動作は少しだけずれていた。つまり、まったく同時に声をあげ、同時に持ち上げるというのは、あくまで理想論であり、現実の作業では、声も動作もわずかにずれているものなのだ。
 問題は、それがどのようにずれているかである。まず、「おう」のペアと「はい」のペアでは、それぞれ参加者の片方のみが声をあげていたので、彼らはいったん除外して、多数派である10組の「せーの」派に注目してみよう。
 意外だったのは、「せーの」派でも、1人しか発声していないペアが3組もいたことだ。ペアの片方だけが「せーの」と声をあげ、もう片方は黙ってその声に合わせて持ち上げているだけだったのである。これはある意味で、巧みなやり方だといえる。よく考えてみれば、声はいくつもある必要はなく、1人の声に合わせて2人が動作をすればよい。オーケストラだって、たった1人の指揮者に合わせて全員が演奏することでタイミングを合わせるではないか。それに両方が声をあげたなら掛け声の選択やスピードのずれが生じる可能性があるが、片方しか声をあげないのならその心配はない。

 


    

  
   
       

 おもしろいことに、双方が声をあげた残りの7組を見ると、片方が遅れて掛け声を発しているペアが目立つ。まずは片方が「せー」と言い始めたあとに、もう片方が最後の「の」だけを同時に発声する「合流派」が3組。そして、相手が「せー」を言い始めたすぐ後に、あわてて早口で「せえの」と言って最後に追いつく「後出し派」が1組いた。つまり、双方が声を発する場合も、片方の声をもう片方がきき、それに合わせるように遅れて発する場合が多いのである。

関連書籍