ちくま新書

『闇の日本美術』刊行記念対談(後編)
山本聡美×橋本麻里
古代・中世の「恐怖」マニア列伝

なぜ古代・中世日本でこのような残酷な怖い絵が描かれたのか? かつての日本人がおそれたものは何だったのか? ――ライター・エディターの橋本麻里さんをナビゲーターとして、 著者の山本聡美さんとともに「闇」の深淵をさぐる対談。代官山 蔦屋書店において、2018年11月12日に開かれたトークイベントの〈後編〉をお届けします。

――日本人は死体の絵をどう鑑賞してきたのか

橋本    いまおっしゃったのは絵画の受容史、鑑賞史、鑑賞形態のお話にもつながりますね。
 絵巻というのはほとんどパーソナルな、みんなで見るというよりも1人で巻き広げ、巻き進み、あるいは気分が乗ればまた後ろに戻って、という形で鑑賞するわけですが、お話に出た「絵解き」、これは大勢で見るものなんですね。
山本    滋賀県の聖衆来迎寺に、15幅でワンセットの六道絵があります。この中の「人道不浄相幅」では、一幅の中で上から下へと、春夏秋冬という四季の変化とともに九相図が描かれています。これは六道輪廻の中の一つに人間の世界を位置づけ、その中での肉体というものの移ろいやすさを捉えた絵です。
(編集部注:『闇の日本美術』本文第四章に図版掲載)
 江戸時代初頭の京都で、後水尾天皇の妃の東福門院のために、この六道絵の絵解きがされたという記録が残っているんです。各幅は長さが160センチぐらいあり、それが15幅セットですので、非常に巨大なものです。こういうものを使って複数の人を対象に教義を伝えていくというような鑑賞形態もあったのだろうと考えられます。
橋本    時間的にはそろそろ、皆さんからご質問を受けつけていくパートに移りますが、最後にこれだけは出しておきたいというものはありますか。
山本    室町時代になってくると、九相図が漢詩とか和歌といった文学と結びついて新しい展開を遂げるようになります。2000年代になってから古書店を通じて再発見されて、九州国立博物館に入った作品があります。詞書として、中国宋時代の文人である蘇東坡に仮託される漢詩が記され、画面の中には和歌が記されています。和漢朗詠の文学の中で九相図を鑑賞していくというような新しい形態が生まれてきます。
 絵は、土佐派を思わせるやまと絵の正統的画風です。死体さえ描きこまれていなければ、一幅の山水画というか風景画として非常にみずみずしい表現を楽しむことができそうです。墨の上に緑青を使ってこんもりとした草むらを描いて、その向こうで犬が吠えている。犬が骨を争っている場面ですが、これだけ見ると、とっても詩的な感じで。
橋本    ほのぼのしている(笑)。
山本    そう、絵はがきになりそうな。最後のほうは死体の骨が散らばっている場面になりますが、主題としては、死体の存在感がかなり抑えられたものになっていて、ここで絵師が表現したかったのは四季の移り変わりです。この場面では雨が降っていますが、秋草のところに黒く見えているのは、銀です。吹き墨という技法で銀を散らして、きらきらと光る雨の中で秋草が打たれているというような、とてもポエティックなイメージに変化をしていく。
 ある図像がくりかえしリバイバルされる歴史の中で、一つの図像に新しい意味づけや読み解き、解釈が行われ、新しい作品に展開していくということが、日本美術の歴史の上では何度も起こります。私が日本の絵画を見ていて好きだな、見れば見るほど面白いなと心から思うのは、そういうところです。
 地獄の絵もあれば死体の絵もあり、気持ち悪いし怖いし、……ですが、私が本書でご紹介した絵はいずれも、最初も申し上げましたように、その当時の絵描きの中で上位5%とか1%とかの最上級の絵師が手がけた最高の絵なのです。絵としての完成度が高く、それぞれの時代のエッセンスをきちんと描きとどめている。その中から注文主の心とか、当時の社会状況までが垣間見えてきて、それがやっぱり美術史、美術という窓を通じて歴史を見ていく面白さ、醍醐味であると思います。
橋本    すばらしい。最後は死体ではなく、いい感じでまとめてくださいました。

――日本絵画ならではのユニークさ

質問者A    先ほど注文主と絵の作者というお話がありましたが、たとえば後白河法皇が注文主だった場合に、希望の構図や図柄を伝えてディレクションをしたりするということがあったのでしょうか。絵巻はパーソナルなメディアだというお話もありましたので、色々な注文を出したのではないかという想像もできるわけですが、二者の間でどういうやり取りがあって作られたのか、お聞きしたいです。
山本    後白河が一つ、絵に注文したという話はあります。絵巻ではなく最勝光院という仏堂内に、自身と妃である建春門院滋子のための御所があり、その中の障子絵を、法華経の絵で荘厳した際の記録です。その制作を統括していた現場担当の貴族に対して、後白河は「地獄のたぐいもはばかりなく描け」というディレクションをしました。
橋本    (笑)
山本    多分こういうことだと思うのですが、法華経の世界を描いていると地獄の描写がテキストとして出てくるので、「法皇様、そこどうしましょうか。ちょっと女院様のお部屋には……」という感じでお伺いをたてたのでしょうね。でも「いやいや、構うことはない、描け」というふうにディレクションをした。同時代の『吉記』や『玉葉』といった貴族の日記に、この件に関する記事が残っているので、さらに、そんな後白河が「地獄草紙」や「餓鬼草紙」などの、地獄絵巻を蒐集していてもおかしくないだろう、というところにも議論がつながっていきます。
橋本    後白河時代、院政期あたりの、実際の絵画制作のプロセスはほとんどわかっていませんよね。もう少しあとのほうの室町、さらに近世で桃山、江戸の時代の絵画制作システムから遡って、こうであろうと、類推しているお話ではあると思います。
山本    室町ぐらいになってくると、発願主つまり注文主としての天皇や将軍や貴族がどういう注文をして、それに対してまずは台本というか、絵巻の詞書が考証役の貴族やお坊さんのところから戻ってきて、絵描きはそのテキストに基づく下描きを描いて、途中で注文主のところに見せに行ったみたいな記録が割としっかり残っています。だから室町の絵巻の製作プロセスはある程度追えるものですが、平安、鎌倉は難しい。後白河周辺で同時代の史料が残っているのは、先ほどの最勝光院の事例ぐらいです。
 後の時代の、しかも説話としてですが、『古今著聞集』の中に、後白河が「年中行事絵巻」を作らせた。それを松殿(藤原基房)が、あちこちに、ここが間違っている、そこが間違っているとチェックして、付箋をつけて戻してきたとのエピソードがあります。さらに、後白河はそれを見て激怒するかと思いきや、基房ほどの学者がこんなふうにチェックしてくれたのだから、これ自体が宝であると言って、付箋ごと宝蔵の中に戻した、という説話があります。後白河が生きた直後の時代に編纂された説話集ですので、ある程度事実に基づくエピソードであると思います。
 あと、後白河の父である鳥羽上皇には、出来上がった「十二天画像」が疎荒、つまり荒々しくて雑で気に入らない、と言って全却下して新たに作り直させたという話があります。実際に描きなおされ、再度納品されたのが、現存する「十二天画像」(京都国立博物館蔵)です。断片的には、いくつかそういった面白いエピソードを史料の中から発掘することができます。それでも、全体として、朝廷の絵所がどういう仕組みで、どういうマネジメントがなされていたのかについては、なかなか解明できない部分も多いです。
質問者A    もう一点聞かせてください。中国とか朝鮮のものを模して描くようなことがよく行われていたともいいますが、ここまで見てきた絵巻の中の構図というのは、そうではないのでしょうか。絵師の1人とか、考証役の学者の発想を得て新しく構図を作っていったというイメージなのでしょうか。
山本    出発点は「写し」からです。中国、朝鮮半島から入ってきたものを写していく、やまと絵という日本の伝統絵画そのものが、まずは中国唐時代の着色絵画のスタイルを踏まえて、技術にせよ構図にせよ、恐らくは学びながら発生しました。それをやっていく中で徐々に、たとえば源氏物語絵巻にある吹抜屋台の構図の作り方であるとか、日本独自のオリジナリティが出てきました。
橋本    やまと絵の話は面白いですよね。唐の時代には青緑山水という風景絵画、着色絵画がありました。それより後の中国絵画では、風景はモノクロームの水墨画が中心になってしまう。ところが日本ではそれを受け入れたあと、日本の風景はやまと絵として着色で描いていく。室町時代の「日月山水図屏風」(金剛寺蔵、国宝)がその一例ですが、日本では着色の風景画が残っていくんです。中国からやって来た中国美術の研究者がそれを見て、何でこんな古いスタイルの絵を、こんな新しい時代まで描いていたんだ、と驚くそうです。中国の古い技を、やまと絵という名前で保存していく感じが、日本的な「伝統」の生まれ方としてとても面白いですね。
山本    一旦学んだものを捨てないのですよね。残したうえで、次にまた新しいものを学ぶ。学び好きというか。
橋本    その後で入って来る水墨画も「漢画」なんですよね、あるいは唐絵と呼んだり。
山本    どちらも根っこを辿ると中国に学んでいるものですが、長い時間の中で着色絵画はもうわがものとして、やまと絵と認識し、新しく後から入ってきた水墨画のほうを今度は中国絵画として認識する。内側と外側に関する感覚が時系列で入り組んでいるというか。
橋本    ミルフィーユのように、新と旧、内と外が折り重なっているのですね。
山本    ご質問に戻ると、最初の出発点では写しているはずです。それを写し倒したところで何か新しいもの、オリジナリティにブレイクスルーしていくというのが日本の古い絵画のありようだと思います。

――習合していく「闇」

質問者B    今日話していただいた仏教の闇についての、光ではない部分について、仏教とは関係のない土着のものとか、いわゆる疫病とか、そういった闇もあったと思うのですが、仏教の闇とは全く違うものとして描かれていたりするのでしょうか。
山本    いやいや、むしろ取り込んでいきますね。
橋本    習合していく感じ。
山本    本書でも「融通念仏縁起絵巻」という絵巻を取り上げていますが、その中に疫病神たち、疫病をまき散らす神様たちの姿が出てきます。桜の花びらが散るのと一緒に疫病が蔓延していく、それをまき散らすのが疫病神であるという、日本の土着の信仰の中から生まれてきた考え方があります。それが仏教の仕組みの中に取り込まれて、疫病神もまた仏教に帰依することによって救済されるのだ、というふうにお話が展開していきますね。
(編集部注:『闇の日本美術』本文第二章に図版掲載)
橋本    神仏習合です。あるいは当時の日本で政治の外に追いやられた土着の民や信仰、そういったものが鬼や土蜘蛛に姿を変えて絵巻の中に登場してくる例は多数あります。
山本    仏教というのは、宇宙的な規模で世界観を設定しているところがみそで。だからこそ、インドで発生して、周辺地域に展開していく中でそれぞれの地域の信仰を取り込む器としてキャパシティーが広いのです。
橋本    ローカライズされていく。
山本    日本に入ってくると、また日本の固有の事情に合わせて変化をしていく。日本固有の信仰、土着の考え方のほうが新来の思想に寄り添いながら、仏教の体系の中に取り込まれていったイメージでしょうか。
橋本    神道に関してはそもそも経典がないですから。
山本    テキストで思想が固定されていないというのが、強いですよね。先ほど話した疫病神たちというのは、もともとは日本の土着の信仰の中から生まれてきて、それが「融通念仏縁起絵巻」という念仏の功徳を説く絵巻の物語の中に取り込まれていく。土着の信仰が仏教に取り込まれた例の一つだろうと思います。日本固有の思想で、仏教と一切混じらずに個別にあり得た何かってあるかしら。ちょっと思いつかない。
橋本    先ほど天部の話が出ましたが、天部はもともとヒンズー教の神様が仏教の中に採り入れられて、護法神、つまりガードマンとして活躍している姿です。インドでも、そういったローカライズがすでに起こっているわけです。同じようなことが、日本で仏教を受け入れるときに起こっていたのですね。
質問者C    今日お話に出てきた絵巻などの作品は、基本的に全部オーダー制で作られた作品だということでしょうか。
山本    そうですね、はい。

――選ばれし、絵巻の鑑賞者

質問者C    そうすると実際にできあがった作品を鑑賞できた人って何人ぐらいいたのでしょうか。すごく少なかったのかな、と想像しますが。
山本    絵巻はすごく少ないはずです。室町ぐらいになってくると、絵巻の鑑賞の記録もいろいろ残っていますが、いちいちの出納や貸し借りにものすごく手間をかけているのがわかります。
橋本    サントリー美術館の「絵巻マニア列伝」展が、まさに絵巻の鑑賞者も含めて紹介する展覧会でした。図録がまだ美術館には売っていると思いますが、読むと大爆笑なんですけれど(笑)。
質問者C    貸し借りをしていた、という話ですか。
山本    そう、しかるべき仲介者を立てて、ものすごいややこしい手順を踏んで、絵巻の貸し借りをしていました。コネクションがないと、見られないわけです。つづらや箱に入って運ばれてきて、何らかの権力を持っていればそれを長く手元にとどめることもできるけれども、借りる側が遠慮して、急いで見て必死で返すみたいなこともあったようです。逆に借りたまま返さない場合も。絵巻はつまり、それを見ることのできるサークルが一部の権力者の中で閉じられているもので、そのサークルの中でも見せることができる人、見ることができる人の関係が色々あった。その輪の外にいて、どうしても見たいものが見られない人というのもいたはずです。
橋本    あと、個人で持たずにお寺などに奉納してしまうものが多い。見たいとなったらそれをお寺から取り寄せるなど一手間かけざるを得ない。そこで権力を行使したり、色々なことが起こります。
山本    それでひとつ、おもしろい話があります。本書の最後のほうで「華厳宗祖師絵伝」を取り上げましたが、その絵巻の冒頭のところに「この絵巻を粗末にするな」という注意が書かれているんです。絵巻を開くとまず、取り扱い注意というか、お説教を読まねばならない。その注意書きを読むとようやく詞書が始まる。
橋本    本編が始まる前に……(笑)。
山本    こんな文章です。「これ華厳宗の祖師の絵なり、きたなき所におきて御覧ずべからず、又は狼藉の絵に入れまぜらるべからず」。華厳宗のお宝中のお宝であるから、「きたなき所」に置いて見てはいけない。これは意味通り穢れた場所を指す場合も、下賤な人々のところには出しちゃいけないよという意味も含むと思います。「狼藉の絵」というのは、雑なその他大勢の絵巻と一緒にしちゃいけませんよというような、こういう感じなんですね。本書で取り上げている絵巻というのは、押し並べて、こういう貴いものであったわけです。
橋本    なので、多くの人の目には触れなかっただろうというお答えになりますね。
山本    明治になってからは絵巻の番付表が作られていたりします。お宝感を増幅していくための一つの方法です。あそこにああいう絵巻があるらしい、横綱はそこで、大関はそこで、……という。そういう番付表みたいなものが作られるくらい、絵巻はやっぱり絵の中でも特別で独特な存在感を持っていたということだと思います。
橋本    さあ、まだまだ聞きたいことはいっぱいありますけれども、ここで一旦締めとし、詳しくは本を読んでいただくということで、終わりにしたいと思います。ちなみにこのあと執筆のご予定などはありますか?
山本    ありがとうございます。この本は、ひとつひとつのエピソードが一話で完結しているような作りですが、実はこれのもとになる、もう10年も前に書いた博士論文があり、長らく塩漬けにしたままになっています。研究者としては博士論文を本にして、そのあとでこういう一般読者向けのお仕事をさせていただくというのが、本来の道筋だったと思うのですが。でも今回のようなお仕事を先にさせていただいて、こんなふうに読んでくださる方の顔がダイレクトに見えたり、手に取っていただきやすいとか、言いたいことをスピード感を持って書けるとか、学術論文で求められるお作法にとらわれず一歩踏み込んで書けるとか、一般書ならではの楽しさを先に経験することができました。将来、またこういうものを出していくために、根っこにできるような、重厚な学術書に取り組まないといけないなと、今自分に課しているところです。
橋本    じゃあ、次は重厚な学術書ですね。
山本    重厚を目指しつつも、読みやすい学術書、手に取りやすい学術書を目指していきたいと思います。こういう蔦屋さんのような書店には並べていただけないかもしれませんが……。
橋本    注文すれば、買えますよ。書店さんで、注文しましょう(笑)。
山本    そういう学術書は、色々なところから助成金を頂戴して、なるべく価格を抑えられるようなかたちで企業努力をしながら作っていくものです(笑)。1年以内ぐらいにそれをお見せすることができればというふうに考えております。
橋本    ではそれを楽しみにしながら、この『闇の日本美術』についても、ぜひ皆さんに読んでいただき、かつ、大勢の方におすすめいただいて売り上げが上がると、またこういう本が出る可能性が上がります。SNSで話題にしていただくとかも含めて……。
山本    そうなんです。山本の本、面白いな、売れるなって言っていただけると、また出版社さんが書けって言ってくださると思いますので。私たち研究者は出版社からの働きかけなくしては、まさに注文主がいないと自らの発案でやることがなかなか難しいので、ぜひぜひ色々なところで宣伝をしてください。
橋本    今日はありがとうございました。
山本    ありがとうございました。