筑摩選書

哲学と共通了解

哲学は、「根源的真理」を問うものではない。その最大の目的は、一人ひとりの生き方と社会のあり方をよりよくすることであり、その方法は、プラトンが描くソクラテスにはじまり、フッサールの現象学にて真価を発揮した「対話」である。そうして哲学は、お互いが納得しうる「共通了解」をつくりだす――この10月に刊行された『哲学は対話する』(筑摩選書)は、「対話としての哲学」を思考してきた西研氏の十年来の研究の集大成。ここに「はじめに」を公開いたします。

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 私たちの生きている社会は、急速に「あたりまえの生き方」が崩れていった社会である。
 明治以来の急速な西欧化、そして戦前の価値観の否定を求められることになった敗戦。高度経済成長による社会の根底的な変容。さらに急激な格差社会化と情報社会化の進展。
 高度成長のことを取り上げてみよう。1960年の統計では、日本の労働人口の約3割が専業農家であった。兼業農家まで含めて考えるなら、国民の半数近くが、先祖代々の田畑を耕して生きていたことになる。わずか60年ほど前のことである。
 高度成長は、そのような村に根ざした人びとの生き方を激変させた。豊かさと文化を求めて、多くの若者が都会に出て行った。だれの世話にもならず独立して生活できること、さらに自分だけの書斎やリスニング・ルームをもつことなどは、多くの若者たちの夢であった。
「欧米に追いつき追い越す」という国家目標と、「窮屈な田舎と貧しさとを抜け出して豊かで文化的な都会的生活を獲得する」という個人の目標が明確に与えられていたのが、高度成長の時代だった(そして個人の目標を実現するさいに、高学歴はとくに重要な手段だった)。
 1980年代の「豊かな社会」の到来は、こうした国家目標と個人の目標との終焉を意味した。GNP(国民総生産)で日本は世界のトップに躍り出る。糸井重里の「おいしい生活」のコピーに象徴されるように、私生活を美的に彩ることが流行し、貧困はかつてのものと思われた。しかしその後、「人びとのめざす目標」は崩れたまま、バブル景気が崩壊して経済格差はどんどん開き、その間にネットは人びとの生活に浸透していった。
 格差社会化と情報化の急速な進展は、「ともに生きる私たち」という感覚をこの社会から急激に失わせていく。個々人の関心は細分化し、ネット上にそれぞれの「コミュニティ」(島宇宙)を展開していくが、現実の地域社会のまとまりはきわめて弱くなった。
 このような急激な変化のなかで、私たちは、生き方のうえで大切にすべきことも、他者とともに暮らし社会をつくるうえで大切にすべきことも、よくわからなくなってしまっている。たとえば人権と民主主義を否定する人は少ないだろうが、なぜそれらは大切なのか、どうやってそれを育んでいけばいいのかということを、私たちが共有しているとはいいがたい。
 そういうなかで、直接に「ひと」と関わって喜びを共有したい、何かすることでだれかが喜んでくれる顔をみたいという欲求が、この社会を生きる人びとのなかに芽生えてきている。災害時のボランティアや、地域づくりに関わろうとする人も増えてきている。人びとは顔を合わせていっしょに作業をしたり、互いの声を聴きあおうとしたりしているようにみえる。哲学対話もまた、互いの声を聴きあい、そして「大切にすべきこと」をつかもうとして、行われているのだと私は思う。

共通了解を求めるべきではない?
 現在行われている哲学対話では、一人ひとりが自分の声を出しやすいように配慮しているようすが窺える。賛否をいう前に、まずは一人ひとりの発言をていねいに聴き、その真意を受けとめようとすることは、とても重要な流儀である。そういう場所ではじめて人は、空気を読みながら期待される発言をする、という圧力から解放されるからだ。
 そのようにして「各自の思いを受け取りあう」関係が成り立つとき、それをとても新鮮に、解放的に感じる人は多くいるだろう。そして互いの思いの交換から、多くの気づきを得ることがあるだろう。
 しかし、そうした意見交換のなかから、参加者の多くがいっしょに考えたくなるような「問い」を見出すのは難しい(優れた司会者は、この問いを見出すことに長けている)。さらにこの問いをめぐって皆の考えが深まり、皆が深く納得しうるような「答え」(共通了解)に到達するのは難しい。
 この点について、「結論を導くことを目的としない」と宣言している哲学カフェもある。確かに、結論を急ぐことで一人ひとりの意見が出しにくくなったり、「勝ったか/負けたか」を競うものになってしまえば、せっかくの対話が貧しくなりかねない。
 しかし、もし対話が各自の意見の受けとり(意見交換)だけに終始して、「ともに探究できる問い」を設定したり、「だれもが深く納得できる答え」(共通了解)を求めることをしないならば、だんだん飽きがくるのではないだろうか。
 交流しながら考えが「進展」しているという感覚や、ある範囲であっても「信頼できる考え」を得られた、という感覚がなければ、対話は満足を得られない。当然、個々人が生きることや社会について明確な考えを得たい、という当初の希望も達成できないことになる。
 しかしなぜ、共通了解を求めることを警戒する風潮があるのだろうか。「哲学においては、結論(合意)を出すべきものではない。結論(合意)は一部の人の意見を真理と信じ込み、他人に押しつけることになる。あらゆる結論は、つねに暫定的なものにすぎない」という見方が、現代哲学のなかに根強いからである(*)。

*大阪大学で1998年に始まった「臨床哲学」についてのドキュメント(鷲田清一監修『ドキュメント臨床哲学』大阪大学出版会、2010)をみると、臨床哲学の要素として、「ある問題や出来事の前提を問うという態度」や「出された結論を絶対視せず、繰り返し問い直すこと」(212頁)という言い方はなされるが、皆が納得できる共通了解を導く、という言い方はされない。おそらくそこには、哲学における合意は抑圧的である、というポスト・モダン的な哲学観がある。
 

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