筑摩選書

哲学と共通了解

哲学は、「根源的真理」を問うものではない。その最大の目的は、一人ひとりの生き方と社会のあり方をよりよくすることであり、その方法は、プラトンが描くソクラテスにはじまり、フッサールの現象学にて真価を発揮した「対話」である。そうして哲学は、お互いが納得しうる「共通了解」をつくりだす――この10月に刊行された『哲学は対話する』(筑摩選書)は、「対話としての哲学」を思考してきた西研氏の十年来の研究の集大成。ここに「はじめに」を公開いたします。

本書の構成
 さて、この本の流れを説明しておこう。この本は三部構成となっている。第一部では、ギリシア哲学のはじまりからスタートして、ソクラテスの「対話の哲学」を取り上げる。そこでは、ソクラテスの哲学対話が何をめざしていたか(哲学の課題と目的)をあらためて確かめたい。そして、共通了解をつくるための方法である「~とは何か」の問いの意義についても考えたい。
 第二部では、フッサールの「現象学の方法」を取り上げる。そしてフッサールが、各人の体験に即しながら共通了解をつくりあげるやり方を提起していること、そうすることで、独断論でも相対主義でもない、新たな哲学のスタイルを切り拓いていることを示したい。
 第三部では、じっさいにどのようにして共通了解をつくっていけばいいか、について、「正義」をテーマとして示してみたい。正義は、私たちが社会をともに形づくっていくうえで欠かせない重要なテーマだが、これをどう考えるかは難しい。正義の基準に多様性があることを私たちは知っているが、しかしまた、正義という観念をもたない社会を私たちは想定しがたいだろう。正義の観念はどういう「根拠」から生まれてくるのか、そして、現代社会を生きる私たちが共有しうる「正義の基準」を想定できるのか。このことについて考えたい。
 三つの部はそれなりに独立しているので、好きなところから読んでいくこともできる。とくに、哲学対話の具体的な技術を知りたい方は、まず第三部を読み、そのうえで第一部、第二部を読んでみる、というやり方もいいかもしれない。
 この本はいささか(ずいぶん)厚くなってしまったが、読者の方に、哲学というものの可能性を感じていただけたらと願う。

 

関連書籍