ちくまプリマー新書

戦争とは何だろうか?

はじめに

戦争の輪郭

 戦争について考える、というのがここでのテーマですが、後に述べるような理由から、今では「戦争」や「平和」という言葉の輪郭がほとんど崩れてしまっています。そこで、まずは戦争というのがどういうことなのかを輪郭づけることから始めましょう。 実際に「戦争」という言葉はどう使われているでしょう? あるいは、戦争という言葉でひとは何をイメージしているのでしょう。

 空襲とか、銃撃戦とか、陣取りゲームとか、召集の赤紙とか、いろいろあるでしょう。でも、それは基本的には国と国とが軍隊を動員して戦い合うということですね。要するに、私たちがふつう「戦争」という言葉で思い浮かべるのは、国家間戦争だということです。とはいっても、戦争がいつも国家間戦争だったわけではありません。むしろ、それはいわゆる近代の世界にできた武力抗争の枠組みです。それはどういうもので、いつ頃にできて、どのように展開されて、今はどうなっているかということについては、順次見てゆきましょう。

 ともかく、戦争では、国と国との間に武力衝突が起こって、そのために国民同士が敵味方に別れて戦うことになります。それが通常のかたちですが、グローバル化以降、状況が変わってきています。グローバルな大きな権力(超大国ですが)が軸になって、それがグローバル秩序を守る、あるいは、グローバルな「文明」秩序を押し付けるというかたちで、国家の軍事力が行使されるようになりました。それは国家同士の戦争ではありません。国家が犯罪者とみなした武装集団を相手に戦うもので、これが「テロとの戦争」と呼ばれ、「非対称的」だと特徴づけられています。これは、今までの国家間戦争とは全く違っていて、世界の秩序を変質させるようなものです。

 そこで戦争はどんなふうになったかというと、文字通り軍事力による人間の純然たる殺戮、殲滅行為になりました。「テロリスト」と呼ばれる敵は、敵としての資格もないし、人間として向き合う必要もない、極悪非道で抹消すべき対象でしかないとされます。何か事件が起きたとき、それを「テロ」と決めつけると、もはや問答無用で理由などは問われません。「テロ」は許しがたい、そんなことをする凶暴な輩は、人間の風上にも置けないから、どんな手段を用いてもやっつける。そのために国家が武力を行使するのは「正義の執行だ」というのです。そうして国家がいわば私人を相手に「戦争」をするようになりました。この種の戦争では、「何人殺したか」ということが「戦果」として発表されますが、その意味では戦争は剝き出しの殺戮になったのです。その雛形はすでにイスラエル国家とパレスチナ人との抗争にありました。じつは植民地独立をめぐる戦争も同じ構造をもっていましたが、詳しい説明は後でするとして、現在起こっている戦争というのは大体そういうかたちです。だから、わたしたちがこれから直面するのも、主としてそういう戦争なのです。

核兵器という限界

 人類の歴史などと大げさなことを言わなくても、人間の集団間の争いのたぐいはいつの時代にもあったし、その延長で、ある時期まで国家間の戦争というのは当たり前で避けがたいことでもありました。ところが、ある時からそれが基本的にできなくなりました。それは核兵器が登場したからです。核兵器出現以降、つまり、第二次世界大戦の終り以降、国家間戦争はできなくなってしまいました。

 主要国が戦争をしようとすると双方に核兵器があるために、大国同士は本格的な戦争することができないのです。それで相方攻撃しない「冷戦」というすくみ合いになり、その間、戦争を凍結したまま軍拡競争をやっていきます。しかしそのためには経済力をつけなくてはいけないので、経済的効率競争になっていきます。ソビエト連邦(現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシ等)はその経済競争に負け、結局冷戦構造は崩壊しました。冷戦が終って、その先世界はどうなったかといったら、次に登場してきたのが「テロとの戦争」です。それと同時に核兵器もどんどん拡散するという事態になってしまった。それがまた、「テロリスト」の危険を強調する理由にもされます。ただ、世界中どこでも戦争は起きうるけれども、核兵器を使うということは偶発的にしか起こらないでしょう。それは使えない兵器なのです。

 核兵器の使用を誰も禁じてはいません。戦争をする国々は切り札としてそれを手放さないし、もちたがります。だから禁止を求める声はあっても、その禁止が実際の効力をもつのは難しいでしょう。ただ、核兵器は一度使われてからは、二度と使われていません。一九四五年のヒロシマ・ナガサキ以降どの国も使ったことがないのです。使いたがった国家指導者もいたけれど、結果的には使えなかった。それはなぜでしょう。核兵器はもしそれを使ったとしたら、使った側が戦争をするためのいっさいの正当性を失ってしまうことになるからです。

 どんな過酷な事態であっても、生き延びれば、慰めること、癒すこともできるでしょうし、生きていてよかったという話になるけれども、すべてが消滅してしまうと元も子もなくなる。そのように、核兵器はすべてを殺すというより、生き物も含めてすべてを一挙に破壊してしまう手段で、これ以上にない「窮極の兵器」です。これを使うと、戦争をすること自体の正当化が吹き飛んでしまいます。だからどこも使えないのです。

 そういう事を知らない、分からない国や分かろうとしない集団は使うかもしれない。でも、それはひたすら無知や無思慮のためでしょう。人間の想像力は乏しいので、事態を理解できないということは往々にしてあります。そう、この場合は理解するのに想像力が必要なのです。

 このように、「核の禁止」というのは法律的な禁止がなくても、法律以前の問題だから事実上機能します。核兵器を使うということは、個人の場合の殺人と同じようなことだからです。殺人は法律で禁止されているけれども、明示的な禁止がなくても、人は人を殺してはいけないと誰もがわかっている。そうでなかったら「人間」は成り立たないし、人間社会も成立しないでしょう。殺してよいのなら、問答無用で言葉が要らなくなってしまいますから。それは理屈ではありません。理屈が成り立つ、人間の相互理解が成り立つ前提です。

日本の「戦後」が終わる?

 今、日本では戦争がホットなテーマになっています。それはわたしたちが「戦後七十年」を経て、ひょっとすると今後は「戦後」という言い方に意味がなくなるかもしれないという大事な節目にさしかかっているからです。

 今まで「戦後何年」とか言われてきましたが、世界的には第二次世界大戦、日本で言えばアジア太平洋戦争が終わって、その後日本は「戦争をしない国」として再出発した。それが「戦後」なのですが、今、この「戦後七十年」の時に、ひょっとするともう、「戦後」と言う意味がなくなるかもしれないという事態が起こっています。

 この節目を前に、日本には「戦後レジームからの脱却」を掲げる政権が登場して、着々とその現実化を進めています。「戦後レジーム(戦後体制)」というのは、受けとめ方はいろいろでしょうが、ともかく日本の国にとって決定的だった大戦争で日本が壊滅的な敗北を喫して、「無条件降伏」によって戦争を終えて再出発する、その時にできた体制のことを言います。国民からすれば、ああ、戦争が終わった、これからはもう戦争をしなくていい、軍部や財閥に振り回されなくていい、社会を民主的に変えて、平和にやっていくことになったという時代です。それが曲がりなりにも今まで続いてきました。つまり「戦争はもうしない」と言えた時代が「戦後レジーム」だということです。

 ところが、今の政府はその戦後体制から脱却するということを目標に掲げています。実際にどういう事をしようとしているのか。日本の戦後の憲法では戦争をやらないということを大原則に掲げていますが、それを、いや、他国のためなら軍事行動をしてもいいのだと「解釈」する、そしてその「解釈」に合わせて法律を次々に作って通しながら、行政組織もそれに合わせて変えている。集団的自衛権の容認と、それを行使するための法整備(安保関連法)というわけですが、ともかく同盟国のためということで軍事行動をできるようにする、つまりは「戦争ができるようになる」ための方向転換です。

 日本の場合は、他の国のような攻撃的な軍隊は持たずに、ひたすら自衛のための自衛隊は可、ということになっている。だから国軍とか兵力とか言わず、自衛隊とか防衛力とか言って歯止めをかけてきたわけです。それで、国土防衛が任務だから、災害救助などにも出動する。東日本大震災のときも活躍しました。それを、他の国と同じような軍隊にして、海外に派遣できるようにし、交戦もできるように規定を変える。それを政府は、平和や安全を維持するための法改正と言っている。けれどもその時、「平和維持」や「平和創出」といった表現の背後に隠れているのは、平和は力づくで作るという考えや、危険なものは予防的に潰してゆくといった力頼みの「強い」姿勢で、平和とか安全という言葉の裏には、むしろ逆に力の行使で、つまりは戦争で事態に対処するという含みが隠れているのです。それが強引に「積極的平和主義」だとも言われています。

 そうなると日本は、口実さえ作ればいつでも戦争することができるようになります。自分から進んで戦争を起こすというわけではないでしょう。日本の国を守るということで想定されるのは、たとえば、よく言われるように尖閣諸島が危ないから中国と事を構えるといったことでしょうが、小競り合いはともかく、本格的戦争はできません。事実上、軍事力に大きな差があるし、だいたい日本の国土はこれだけで、人口は一億二千万。中国はあれだけ広大な国土をもち、人口十五億。日本は、一対一ではダメ、一人で二人の「敵」に当たってもとても間に合わない。何より、単純に言ってこの小さい国土の中に原発が五十基以上もあります。それを二つか三つ叩けばそれで日本は終わりです。核兵器を使う必要もない。だから、中国に対して先制攻撃なんてとてもできないでしょう。それでも、戦える軍隊を持って戦争に参加するのは、国際貢献上必要なんだと政府は言います。けれども、その「国際貢献」とは何なのか。今具体性があるのは、例えばシリアやイラク、北アフリカなどの戦争や紛争処理を手伝うということでしょうか。しかし戦争があるから、あるいは空爆があるから、そういうところでは完全に国家崩壊を起こしてしまって、住人が生きられなくなって難民になる。そんな世界破壊の手伝いをするより、生活するための基盤が壊れてしまっている国々の人を助けることの方が、よほどまともな「国際貢献」になるでしょう。

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