「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち

戦時下の「共助」論
防毒マスクと「女生徒」

9月14日に行われる自民党総裁選挙に出馬した菅義偉氏は、「自助・共助・公助」を打ち出しています。今では自然にセットで使われているこれら三つの言葉には、実は別々の来歴がありました。
戦時下に使われた「共助」という言葉が、いかに「日常生活の共同化」そして「身体の機械化」へと結びついていくのか――。
コロナ下で提唱された「新しい生活様式」への違和感を解き明かした『「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち』にもつながる、大塚英志さんのエッセイです。

†日常生活の「共同」化へ
 その仰々しい論理が「日常」の水準で具体化されるのが、日常生活の「共同」化である。
 事実、「共同炊事」「共同保育」などの文字を戦時下の新聞や雑誌、翼賛会関連の文献にすぐに見つけることができる。日用品の借り貸し、共有などの美談も見られる。これらは「シェア」「シェアリング」という言い方でコロナ以前、ここ数年の流行で一方ではリベラルな、他方では「シェアリングビジネス」というweb絡みの起業のアイデアとして流布されたことは記憶に新しい。
 コロナ禍での「ていねいな暮らし」がそうであるように「共同」もそれ単体では正しいように一見、見える。もともと「共同作業」は生活困窮者向けの、今でいう炊き出しや、あるいは農繁期の農村で推奨されたもので、出自全てが翼賛体制にあるわけではない。
 だが問題は、その「正しさ」のみを重ねた先に出来上がる社会体制だ。
 例えば、「共同保育」を促す記事にはこうある。

空襲下の乳幼兒保護のためにも、工場へ通ふ母親のためにも隣組の共同保育はぜひ行はれねばならないが、過日の議會でも「コドモ隣組」の必要が力説されてゐる、大日本婦人會健民部副島ハマ女史は実地の体驗から「コドモ隣組」の開き方を次のやうに述べた
(「朝日新聞」1944年1月31日)

 つまり空襲から子供をまとめて避難させたり、女性の勤労奉仕を可能にするため隣組による「共同保育」が推奨されていた。働く女性のあり方そのものが根本的に違うのである。ちなみに、この「共同保育」の記事は、国旗に向かい礼で始まり「私たちは日本の子供、天皇陛下に忠義を尽くします」の唱和で終わる運用マニュアルの紹介へと続く。
「共同炊事」も同様で「おかずを交代制で仲良く共同炊事 ガス節約に垂範の五人組」と記事の見出しが全てを物語っている。「五人組」とは仲の良い主婦グループのことで、下意上達が建前の翼賛運動の方針に従い住民の自主性が演出される。
 その記事のリードにはこうある。

今回のガスの消費規正による「家庭用二割減」の対策として、商工省で共同炊事こそ問題を解決するただ一つの鍵であると、その実行を勧めてゐるが、いひ易くして行ひ難いこの共同炊事を、五年も前から実踐して燃料、勞力、時間の節約に大きな成果を収めてゐる一群がある
(「朝日新聞」1943年8月12日)

 この「節約」は当然、戦時体制下で求められる「節約」に他ならない。
 それは『赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子などは以下のようにはっきりと書いていることでもわかる。

最低の生活と最高の名譽が我々に課せられた使命である。これを銘々の家庭の中に實現し、この意義を會得させる日常こそ女性翼賛への道である。
(村岡花子『母心抄』1942年、西村書店)

「最低の生活」とは節約を尽くす"ていねいな暮らし"の別名であることはいうまでもない。だからそういう「生活」を「楽しむ」という感情の醸成とでもいうべきものが他方であったことも、同じ村岡の証言でわかる。

「樂しい生活」といふことが、この頃しばしば話題にのぼる。或は「生活に樂しみを求めるには」といふやうな題目が與へられる。(前掲書)

†文化歌劇のなかの楽しい共同
 この「楽しさ」を具体的な光景として探すなら、宝塚歌劇・昭和16年6月の雪組公演「文化歌劇 楽しき隣組」に見て取れるだろう。「文化歌劇」とあるのは戦時下の教育啓蒙映画である「文化映画」の歌劇版という意味なのだろうが、その歌劇の中で、不良品や廃品のバザーをするくだりを受けて、以下の会話がある。
組長とは言うまでもなく、隣組組長である。

組長「なるほどね、廢品の再生にかゝはらずミシンがなくて、不自由を感じてゐらつしやるお宅もあるでせうね、どうでせう、この際ミシンをお持ちのお宅へ御迷惑でせうが御無理を願つて隣組の共同裁縫といふことを實行して見ては」
主婦(一)「賛成です、さうすればお互に便利だと思ひますわ」
主婦(二)「便利なだけでなく、時間と手間がとてもはぶけて經濟的ですわね」
主婦(三)「いつそのこと、もつと進んで共同炊事といふことも考へて見たら如何でせう」
主婦(四)「さうですね、食物を平等にする、一つ釜の御飯をたべる、といふことはどんなに人と人とを結びつける大きな力になるか知れませんもの」
主婦(五)「調味料だの、材料だの、燃料、時間の無駄を省くばかりでなく、お互に助け合ふ氣持が自然に養はれるようになるでせう」
主婦(六)「それに家々によつてお國料理や味のつけ方など、それぞれ長所があるでせうからそれを共同炊事にとり入れたら、いつも美味しく頂けると思ひますわ」
組長「これは名案だ、いづれ近日中にもつと具體的に相談して、早速實行することに致しませう」
主婦(七)「共同裁縫、共同炊事、これはみんな家庭生活の新體制ですわ」
主婦(一)「さうです、私達主婦もお國のために少しの無駄もないやうに、合理的・・・な生活をいたしませう」〉
(堀正旗「楽しき隣組—家庭生活の新體制-」『寳塚歌劇脚本集』1941年、寳塚歌劇團。傍点は著者)

「生活」の「共同」化が、近衛新体制、そして「お国」の求めることであることがわかる。共同こそが家庭生活の新体制だということのくだりを受け、一転、一同歌い出すというシナリオになっている。それが実際、「楽しい」かどうかは別として「楽しい」と言わざるを得ない同調圧力があったことがうかがえる。
 さて、このシナリオの最後に「合理的」とあることに注意したい。これは新体制が経済を含む科学的合理主義をもう一つの基本としていたことと関わりがある。
 その「合理的」と「共同」の別の局面での結びつきを今少し、踏み込んで見てみたい。それは「生活」だけでなく「身体」にまで及ぶからである。

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