■傷つきやすさのとらえ方
坂上 『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の七森は大前さん自身が投影されているキャラクターなんでしょうか。
大前 身長や体重はほぼ自分と一緒にしていて、服のサイズで言うと、ユニクロのレディースのMサイズがちょうど合うくらい。昔からユニセックスの服やレディースの服を買うことが多くて、身長が低いのもあって、男性からよくからかわれたりしていました。向こうからすると、馬鹿にしているとかじゃなくて、親しさの表現だったかもしれないんですけど、やられるほうとしてはいやで、でもいやとは言えず、女性からも内面とか関係なく背が低いというだけでざっくり「かわいい」と言われたりもして。当時の大雑把な括りですが、自分は男性・女性どちらのグループにも属せないという感覚があって、こういうことをあまりうまく言語化できなかったんですけど、最近、ジェンダーの問題や意識をわかりやすく書いてくれている本が増えてきたこともあって、七森に自分を投影しながら書けるようになった気がします。
坂上 七森と麦戸ちゃんの関係は、悪い言い方をすると共依存的なところがありますよね。そこに白城さんは一定の心理的な距離を取っている。白城さんは二人に、「ひとにやさしくしなきゃ」という考えに囚われすぎないでほしいと思っているし、だからこそ彼女だけサークルでぬいぐるみとしゃべらない。そのキャラの配置の仕方が小説として面白いし、人間の描き方としてフェアだと思いました。
大前 傷とかやさしさについて描くときに、つらいことを描かないようにすると、どうしても守られた空間とかある種時間の止まった空間になってしまうと思うんですけど、それだけだとけっきょくそこ以外の時間は進むし、ひとも歳を取るし身体も変化していく。ただ守られた空間があるというだけでは駄目で、白城さんは彼らから距離を取って時間を進めてくれるひととして描きました。
坂上 『ファルセットの時間』でも、あやせという女の子がユヅキの彼女として出てきますが、あやせは白城さんのように、他者性を持った人物です。『ファルセット』の冒頭だと、街中で女装している男の子を見つけてナンパしたら仲良くなれたって話はかなりご都合主義的なんですよね(笑)。そこに終盤、あやせが出てくることで、ユヅキと自分が別の人間であるということを思い知らされ、同時に、自分はユヅキにとっての一番でもないんじゃないかと嫉妬して動揺する。
ただこの二作は主題は近いけど、書き方はむしろ対照的になっていると感じていて、『ファルセット』はとにかく淡々と書くことを意識していたんです。心理描写や感情の表出を抑えめにして、ちょっとした会話や動作で空気感を伝えることで、さらっとした読み心地の作品をつくりたかったんです。
一方、『ぬいぐるみ』も文体は軽やかですけど、七森も麦戸ちゃんもわりと重めの心情を吐露します。「つらい」とか「傷ついた」という強い感情を表出させて、作品の輪郭をしっかり作ろうという意図を感じました。
大前 言い争いを小説のなかでさせたいというか、感情をバーッと書いて、登場人物たちがいま思っていることをさらけ出すことで混沌を作って、会話の応酬でそれを突破しようとしたんですね。『ぬいぐるみ』は軽めの文体だけどハードな話かもしれないと思っていて、いま感じている嬉しさやつらさを全部出すことで、次の嬉しさやつらさに進もうと考えていた気がします。
坂上 最初に読んだとき、麦戸ちゃんはひょっとして自殺するのではとハラハラしていました。直接的ではないけど、死の匂いがあちこちに漂っているように読めたんです。ああいう傷つきやすい性質って、ぼく自身もすごくあって、テレビで嫌なニュースを見たりすると、自分と関係ないのに精神的なダメージを受けてしまう。むしろ関係ないことが傷つく原因にさえなったりする。作中で、京都アニメーションの名前が出てきますけど、昨年の京アニの放火事件のあと、ぼくは一カ月くらい抑うつ気味になりましたし、その後京アニの作品を見るときにクレジットを凝視するようになってしまった。社会的な事件と個人的なつらさがリンクすることは間違いなくあって、『ぬいぐるみ』はそういった心のメカニズムを的確に捉えているあたりがいいなと思いました。
元女装者の中年と十代の女装少年の交流、ぬいぐるみと話すサークルに集う大学生、ノーマルな社会になじめないひとびとのクィアな欲望、ジェンダー規範へのとまどいをセンシティブに描く気鋭の小説家ふたりによる初対談! 男性性へのとまどいや欲望とのつきあい方、LGBTを描いた小説について等々率直にお話しいただきました。ご覧下さい。