■マナーを守ること、自由であること
―― ただ、『ぬいぐるみ』の登場人物は主に大学生で、やはり大学生は社会と個人の関係で悩むよりは純粋に人間関係のことを悩みがちです。他方、坂上さんの場合、『ファルセット』に限らず、主人公が社会人として何らかの職業に就いていて、彼らの内面と関係なくある意味鈍感に仕事をこなしていきますよね。
坂上 『ファルセット』に限らず、主人公が何かしらの仕事をこなしているというケースはぼくの場合多いです。プライベートでどれだけ嫌なことが起こって内面での葛藤があったとしても、社会はそれと無関係にさまざまな要求をしてくるわけで、そこにある規範や現実に向き合っていきたいという気持ちがあるのかもしれません。
大前 坂上さんの小説の登場人物は基本的にみんな礼儀正しいですよね。最後のほうで竹村があやせの存在にムカついて店を出ていくところでも、ちゃんと店子さんに会釈していたり。他の作品でも、本人の性格やそのときの気分とは別にマナーをわきまえていて仁義が通っているんだなと思いました。
坂上 それは単にぼくの素の部分かもしれないです(笑)。見栄っ張りなので、どこの店に行ってもいい客だって思われたいんですね。お金は使うけど態度が横柄で店の人に嫌がられる客というのはたくさんいるわけで、そこと一緒にされたくないという気持ちは強い。『ファルセットの時間』に少し絡めて言えば、昔、新宿二丁目のレズビアンバーに通っていた時期があって、そこは男性客だとぼくを含めて三人しか入店を許可されていなかったんです。そういう特別感が当時ものすごく嬉しくて、だからこそ他のお客さんがいる時にカラオケを歌うのは避けるとか配慮していたし、マナーを守れる男性でいたいという気持ちは強かったです。そうした意地みたいなものは、小説の中にも自然と表れているかもしれません。
大前 ぼくも、自分は男性だけど女性に対して無害でありたいということを目に見えるかたちで示したくなることがあります。でもそれは、そういう自分を自分に見せたいだけなのかもしれず、ちょっと怖いなあとも思います。
坂上 わかります。ただ時折、ホモソーシャルな空間やマチズモが苦手というのと同時に、自分の中に女性への不信があることも感じるんです。それを不意に自覚した時には、混乱するし自己嫌悪に陥ったりもします。誰にとっても無害な存在になれないということはわかっているんですが、そうなりたいという欲望はおそらく抱えているんだろうなと思います。
大前 加害に無自覚なのは論外ですけど、加害性を気にしすぎると過度に自罰的になって精神の健康を損なったりしますし、そこで悩むこと自体が傲慢なのかもしれないと自分に感じることもあって、難しいですよね。
坂上 そうですね。ぼくの場合は十年くらい前に、自分の中にある男性性への嫌悪が単に「女性の味方」というパフォーマンスに過ぎないんじゃないかと悩んだ結果、だいぶメンタルを病んでしまって、カウンセリングを受けに行ったことがあります。まあ具体的な回答は得られず、特に役立つ話も聞けなかったんですが、他人に答えを求めてしまうくらいには混乱していた。今もそうなんですが、男性である自分を当然のように受け入れるということができないんですね。
そういう意味で、クィアというのはぼくにとって救いの言葉でもある。ぼくはクィアという単語に対して、すべてを包括していると同時に何も含んでいないというイメージを強く持っているんです。そうした、どこか自由な言葉への憧れは常にあるし、自分だけでなくあらゆる人がクィアとして振る舞ったっていいだろうと考えています。
『ファルセットの時間』は、クィアという不定形のものに、物語という形で一定の輪郭を与えることで、読み手とその自由なイメージを共有したいという気持ちで書いた部分が大きいです。ぼくはデビュー作の『惜日のアリス』以降、ずっと「ズレた欲望」について書いてきたけれど、わかりやすいクィア性を表したことはなかった。じゃあ、一度それを異性装という形で前面に出してみようという試みだったのかなと思います。
大前 竹村はときどきユヅキへの思い入れとか独占欲が出てきますけど、基本的にはジェントルですよね。ぼくはむしろそこが両立するのが怖いと感じました。
坂上 まさにそこが書きたかったところで、たぶんぼくのクィアのイメージは一般的なそれとは違っていて、必ずしもセクシュアリティに限らず、ある境界線上を生きている人たちを広くクィアとして捉えたいんです。安定したアイデンティティを生きるよりは、正しさも危うさも両方持っていて揺れているような存在ですね。
だからこそ『ファルセット』では、ユヅキとの関係をぎりぎり破綻しない範疇におさめて、最後にウィッグをかぶせることで綺麗につきあっていきたいというのが、主人公の欲望になってるんです。その両義性の象徴として、最後に紫色の毛を出したという感じです。
大前 『惜日のアリス』でもライラックが印象的に使われていて、紫は坂上さんにとって大事な色なんだと思いました。
坂上 そうですね。ぼくにとって紫というのは、クィアのイメージそのものだし、赤と青の間色になっていることも含めて、カテゴリーを超越していくようなものとして認識しているんだと思います。
元女装者の中年と十代の女装少年の交流、ぬいぐるみと話すサークルに集う大学生、ノーマルな社会になじめないひとびとのクィアな欲望、ジェンダー規範へのとまどいをセンシティブに描く気鋭の小説家ふたりによる初対談! 男性性へのとまどいや欲望とのつきあい方、LGBTを描いた小説について等々率直にお話しいただきました。ご覧下さい。