② 「姉はすっぱいみかんを食べた」 (小3 国語)
線を引いた部分の「言葉の意味をくわしくしている修飾語をえらんで」、マルでかこみましょう。
あ~案の定間違ってるじゃん! 正しい答えは……ってアレ? 答えは何!? 大人のみなさんわかります?
今回ばかりは、あながち「珍回答」ともいえない、息子の答案。

「自分には②の答えがわかりません」ってTwitterでつぶやいてみたら、多くの反応はあらかたこうでした。
「波線の引き間違え、つまり出題ミスでしょう」
「『みかん』に線が引かれてるべきだったのでは」
「で、『みかん』の修飾語が『すっぱい』だから、だったらあってるじゃん」
……大の大人がよってたかってそう結論づけようとしていたのですが、プリントの解答を確認してビックリ。「食べた」の修飾語は「みかんを」で正しいそうです。

以下、小学校3年生の国語教科書より。
「わたしは おじいちゃんに 手紙を 書きました。
下線を引いたもの(実際には四角で囲ってある)の、「何を」「誰に」に当たる言葉を、修飾語といいます。」

「みかんを」や「おじいちゃんに」「手紙を」を修飾語といいますだと? いやそれ、「目的語」ちゃうん!? なあ?
というわけで今回あらためて知りましたが、小3でこの文の成分が導入される際、単文の要素としては最初に「主語」「述語」が導入され、それ以外は、副詞、目的語ぜんぶまとめて「修飾語」と扱うことになっているのでした。小学校の頃、自分もきっと国語でそう習っていたはずなのでしょうが、まるっきり忘れていたようです。
国語の先生、あるいは国語教育で扱う国文法に携わっておられる方には常識だったのかもしれませんが、それ以外の多くの人間には、(伝統的な国文法とは異なるアプローチの)言語学やってる自分も含めてですが、すごく意外なことでした。だから、大人のみなさんの反応がおおかた「ミスプリでしょ」「出題ミスでしょ」だったんですよね(ある超難関中高一貫校の国語の先生までそうだったのはウケた)。
述語の表す内容(動きや作用)の及ぶ対象としての「目的語」と、述語の内容を詳しくしたり、意味内容を限定したりする「修飾語」は別々に扱うのが当たり前だと思い込んでいたので……。
でも考えてみれば、小さい子には、文を成分に分けるという発想からしてもうじゅうぶん難しいのかもしれません。「主語」と「述語」という概念を分かってもらうだけでもきっとすごいことであるはず。なにしろ、文という単位が表現する意味内容とはあくまで別個に、その形式・構造を考えるという、こうしたいわば抽象的な分析はきっと初めてのことでしょうから。だから、「主語」と「述語」以外はまとめてひとつの分類にしておいたほうがいいかも……と無理矢理自分を納得させてみた。
だけど、小学校にとどまらず、中学校の国語で学習する内容の「文の成分」でも、「おじいちゃんに」「手紙を」は依然一貫して「修飾語」と分類されています。そのうえで、「連用修飾語(副詞的な働き)」「連体修飾語(形容詞的な働き)」の区別に重きをおきます。「修飾語」と「目的語」を区別することはやはりありません。国語では。この先も。「国文法」ではそうなのです。
面白いのは、中学高校で英語の文法が導入されたときです。英語の文型は「主語」「動詞」「目的語」「補語」などの用語を用いて説明します。そう、「目的語」(eat an orange、あるいはdrink waterのan orange、またはwater)という区分は、英語の時間に初めて導入されるわけですね。
するってえと、 「英語には、日本語にはない『目的語』ってシロモノがあるらしいぞ」みたいなことになるんですかね。舶来品か、目的語は。個人的には、そうじゃないから!って言いたい気持ちが収まらないですねえ。英語で「目的語」って言ってるソレは日本語でも「目的語」じゃないの?
ためしに冒頭の文、説明しやすくするために、「すっぱい」をとって、そのかわり「昨日」をいれてみました。国語の教科書的には「昨日」も「みかんを」も、「食べた」の修飾語、というわけです。比較のために、英語の例もおいてみましょう(まあ、みかんはan orangeってことにしておこう)。
姉は 昨日 みかんを 食べた。
My sister ate an orange yesterday.
英語にしてみると、目的語(eatの対象物であるan orange)と修飾語(ここではその行為がいつのことかという情報を付け加える副詞 yesterday)の違いが客観的にわかりやすいし、あらためて日本語をみれば、同じことが当てはまることが確認できますよね。日本語にも目的語はちゃんとあるんです。輸入品じゃないんです、目的語は。でも、じゃあ、証明してよ、って言われたらできるのかなあ。
英語だと、下の文のように他動詞で目的語を抜かしたら、明らかに間違いです。話の流れ的に、ここではオレンジを食べたかどうかが話題になっていることがわかっていたとしても、です。
×(言えない) My sister ate yesterday.
まあでも”eat”は「食事する」っていう自動詞的な解釈も可能なのでちょっと微妙な例かもしれない。以下の例だとどうでしょう。仮に、話の流れ的に叔母さんのことを話していると理解されていたとしても、目的語を抜かすと英語として確実に文法的におかしいです。副詞はなくても文法上は問題ありませんが。
○(言える) I met my aunt yesterday.
×(言えない) I met yesterday. (目的語抜かしてみた)
○(言える) I met my aunt. (副詞抜かしてみた)
このように、他動詞にとって義務的な情報である目的語と、オプショナルな情報である修飾語(副詞)の違いは英語ではわりと簡単に実感することができます。
しかし、日本語では、何の話をしているかわかっている限りは、修飾語はもちろん、主語でも目的語もばんばん省略できちゃうという性質をもっています。なんなら述語だけでも文が成り立ってしまうわけです(そう、「会った」だけでも。)
○(言える) 叔母に会ったよ。 (主語抜かしてみた)
○(言える) 昨日会ったよ。 (主語と目的語抜かしてみた)
○(言える) 会ったよ。 (主語も副詞も目的語も抜かしてみた)
(さすがに、藪から棒に「会ったよ。」って言われても「は? 誰が? 誰に? 何のこと?」ってなりますので、ここでも前提としては昨日叔母さんに会ったかどうかがすでに話題になっていると想像してみてください)
こうしてみると、日本語では、「目的語と修飾語(副詞)は違うよね」って実感を持ちにくいのかもしれません。「目的語」は外国語学習で出てくる輸入語、って位置づけも、そう考えるとそれなりにうなずける気もします。
なんなら日本語の「主語」も、思ったほど当たり前のものではないかもしれないぞ。
国語の教科書では「「だれが(は)」「何が(は)」にあたる言葉を主語といいます」と導入されているけど、本当にその理解でいいのかしら。
ごみは、ぼくが捨てておいたよ。(主語は「ごみは」ちゃうやろ!)
あなたが好きよ、とっても。 (「あなたが」は主語じゃないよね)
ぼくも君が好きだよ。(「君が」は主語じゃないよね。「も」がつく方が主語だね)
っていうかぼく、君も元カノも好きなんだよ。(こんどは「も」がつくけど主語じゃない。ってかこの男は許せないね。←「この男は」も主語じゃない)
10カ国語が話せるからっていい気になるなよ。(「話せる」の主語は「10カ国語が」…んなわけない!)
こんなふうに、本当は「○○が」と「○○は」は、それぞれ様々な理由で主語にならない場合もあり得るのですが、そんなの小学3年生の教科書で扱ったらややこしすぎて、全員国語が嫌いになっちゃったらどうしよう。
あらためて子供の教科書や教材を見てみると、ここであげたような微妙な例、つまり、最初の説明に当てはまらないような例は、注意深く抹殺回避されていることが見て取れます。教材作る人たち、本当に細か~い工夫をしているのですね。
ぶっちゃけ、現実の小学3年生は、そういう説明が微妙なケースも含め、日本語を何の問題もなく使いこなしているわけですしね。「これは主語」「修飾語」ってテストできかれて答えられなくても、実践の場ではそれらをごっちゃにすることはなく、正確に意図を適切な表現にのせて発信し、理解しています。
そうした言葉の知識をどうやって整理分類すればいいのか、微妙な例も包括した形で一般化(説明)するのに苦労してるのは大人のほうなんですね。国語教育分野であれ、理論言語学であれ。
ただ、理論言語学者にとっては、どんな説明になろうとも、「小学生がわかってくれるか」って心配まではしなくていいのでしょうが(したほうがいいんだろうけど)、国語教育分野では「十分正確に」「だけど子供がわかるように」「教師が時間内に説明しきれるように」っていう制約があるから大変そうですね。細かい違いや例外や、「一括りにできるか微妙」って件にまでいちいちスポットをあててはいられないでしょう。
ただ、「子供がわかるように」「教師が時間内に説明しきれるように」最大限シンプルにまとめられた説明からはみ出す部分があるのが言語の本当の姿。「知らなくても使えている、そんな言葉の決まりについて教える、考えさせる」という知的訓練が、そうやって現実と接点を持つわけです。
それだから、説明通りでないところにツッコミを入れる子供がいたらいつでも受けてたつ準備をするためにも、大人のほうも心のアンテナの感度を上げて先回りしたいものだといつも考えてはいるのですが……うちではヘンなのばっか網にかかっちゃうんだなこれが。