●キーワード3 「結婚」「女の仕事」
小山内 次のキーワードは「結婚」と「女の仕事」です。『魯肉飯のさえずり』では、主人公が就職活動に失敗したときにスッと手を差し出してくれた人が高スペックの男性で、とりあえず経済的に困らない、そして自尊心も保たれるということが結婚を後押ししていました。このキーワードでいうと、チョ・ナムジュさんはどういうところに力点を置いていると思われますか。
すんみ 女性が働くことの意味についてかなり意識的に書かれていると思いました。おかず代を稼ぐためではなくてちゃんと生計のために、職場で「お母さん」としてではなく仕事人として働いている女性たち。例えば、3章の「調理師のお弁当」には、子どもたちが通っている学校で給食の調理師として働いている母がこんなことを言います。「家ではお母さんのつもり、学校では調理師のつもりで料理してるのよ」。
私の母も調理師なのですが、同じようなことを言っていました。家で料理をするのと、仕事として料理をするのは全然別のことだと。家でよく作っている食べ物でも、職場で作るときはどういう手順で、どのように作って、時間の配分をどのようにするかをちゃんと計算して頭でシミュレーションしておかなきゃいけないと言っていたんです。取材をもとに描かれた小説なので、実際働いている女性たちのリアルな声を、また女性たちが働く実際の意味をちゃんと汲み取って描いている。それから、第3章の「運転の達人」の話もすごく好きです。
小山内 女性の路線バス運転士さんが主人公ですよね。女性運転士が運転中、乗りこんできた客の運賃が足りないことを、小銭が落ちるその音で気づく。そして、それをたまたま見ていたテレビ局の人に「小銭の金額を当てる達人としてテレビに出ませんか」と声をかけられて、というお話です。運賃をごまかす客が乗り込んできたところから物語が始まっても違和感はないのに、なぜか冒頭で朝一番の職場の光景が描かれています。まだ薄暗いなか、男性運転士たちがタバコを吸っているのを見て女性運転士は、就職したての頃に、あそこに交ざればもっといろいろな情報が得られるんだろうな、タバコでも吸おうかな、と考えたことを思い出す。その彼女もいまや経験を積み、同僚の男性運転手から励ましの声をかけられるまでになった。一見いい話なんですが、もしかしてタバコを吸う男性新入社員だったら、早々に喫煙所で和気藹々(わきあいあい)とできていたかもしれない。一方彼女は実績を積み、信頼され、タバコを吸わないことも認められて、ようやく「仲間」になれるんですよね。男性が優遇される職場では、男性にはまっすぐ直線コースが用意されるのに、女性は坂道をヒーヒー言うようにして進んでいくのだと。そういうメッセージまで計算されているのではないかと思いました。
温 ほんとにそうですね。この同じ話の中で、これといってスキルもキャリアもない主婦にできる仕事なんてたかが知れていたということも書いている。同時にこれは、主婦であること、しかも、出産や育児という‟大偉業”をしてきた人たちの仕事復帰の場が限られている社会ってどうなんだという、問題提起にもなってますよね。これは私が前々から思っていたことなんですけど、女性は仕事をしていても「母として、妻として、女として」輝いてなくちゃならないみたいに言われがちなのに、男性は「父として、夫として、男として」とりたてて輝かなくても「普通」に仕事をしていられる。やっぱり不均衡ですよ。
小山内 一つ一つめくっていくと、オセロみたいに、白が黒だったのかという感じはありますよね。
●キーワード4「食べ物」
小山内 「食べ物」といえば、まずは『魯肉飯のさえずり』のタイトルにも出てくる「魯肉飯」ですよね。
温 日本語としてちょっと不自然な響きのタイトルにしたいと思ったんです。いわゆる普通の日本語じゃないところで生きている人たちの存在感が表わせたらと思っていました。もともと、雪穂という母親は、娘の桃嘉をおなかいっぱいにしたくてしょうがない。たとえば12歳の桃嘉は、塾や学芸会の練習で忙しくて、夕ご飯を残してばかりいる。そのせいでやせっぽちになる桃嘉を心配した雪穂はおむすびを作るのですが、美味しいものを食べさせたい一心で台湾から持ち帰ってきたバーソというそぼろみたいなものを具にする。でも桃嘉はそれを残してしまう。「なんで食べないの?」と問い詰めると、梅干しのおむすびなら食べたいと桃嘉は言う。バーソって、けっこうコッテリした味なんです(笑)。だから桃嘉にしてみれば、忙しいときに大急ぎで食べるならもっとさっぱりしたものがいいという意味だったのに、雪穂は、バーソという台湾の食べ物や自分まで否定されたと思ってショックを受ける。でも、この十二年後に桃嘉もまた、魯肉飯を作って夫に食べさせたら、「日本人の口に合わないよ」と言われてしまい、台湾にルーツを持つ自分が否定されたような心境に陥る。一見、ささやかなことなんだけど、こうした食べ物をめぐるすれちがいを書くことで、日本と台湾の間で生きている人物たちの揺らぎを表現したかったんですよね。
小山内 料理が場面を切り開くキーになるような感覚でしょうか。
温 自分が単純に、美味しくごはんを食べている人たちの姿を描いた映画やドラマを見るのが好きというのもあります。心を許し合っている人たちと囲むごはんは美味しいですからね。そう考えると、聖司が魯肉飯を美味しく思えなかったのは八角の味を受け付けられなかったのもあるだろうけど、桃嘉が思い詰めた表情で自分の反応をじっと待ち構えていたからかもしれない。ちょっと怖いよね。そりゃ鯖缶を開けたくもなる。著者としてはここでもあまり聖司を悪くは書きたくなかった。ただ、聖司がまた「普通のおかずでいいよ」とか言っちゃう。それで桃嘉はまた魯肉飯って「普通」じゃないよね、と落ち込む。
小山内 また「普通」になっちゃうんですね。
温 そうなんですよ。だから、桃嘉が自分にとってはこれが「普通」なんですけど、と言い返せるならよかった。でも聖司と同じ価値観を内面化しているので、聖司が「普通じゃない」と言ったら「普通じゃないよね」と同調して自分を追い詰める。
すんみ 子どもの頃からずっと日本と台湾の狭間で「私はどっちなんだろう」と揺らいでいますもんね。結婚をきっかけに、もしかしたらもうそろそろ聖司側、つまり「普通」の側につきたいと内心思っていたかもしれない。そういうときに「普通じゃない」と言われると、よけいショックが大きくなりますよね。
温 審判を任せてしまっている。桃嘉自身もずるいんですよね。就職に失敗したときに、なるべく傍から見て「普通」の人生を送っているふうにするには、この人と結婚するのが一番だ、みたいな計算もあったと思うし。でも、魯肉飯を食べてもらえなかった頃から少しずつ、夫に対する違和感が飲み込めなくなってゆく。
小山内 波風立てないように、もっと辛い目に遭わないように、自分さえ我慢すればとやりすごしたくなることは、誰にでもありますよね。
『文藝』に掲載された「家出」の納豆チゲもそうなんですが、チョ・ナムジュさんの作品は食べ物が出てくるシチュエーションが美味しそうなのかな、と思うんです。
例えば、第4章の「また巡り逢えた世界」では、女子学生たちが大学に立て籠もって自分たちの正義を追求しようとしているとき、先輩たちがお金を集めて食べ物を応援として届けてくれる。『魯肉飯』のおにぎりのように、「戦え、進め」という意味がある。
温 自分が大事に思う人には、単純に、おなかいっぱいでいてほしいですよね。でも、「離婚日記」の義母の作るタコの水炊きはヤバいです(笑)。嫁を心配して作っているというよりは、その逆で。おまえのせいでまともな食事ができない私の息子がかわいそうだとばかりに。それはそれで母親らしい感情ではあるのですが。
ところで、この夫や周囲の同僚とか、男性はあまり像を結びませんよね。嫁と姑という女性同士の精神的な闘いみたいなのが浮き彫りになる。
すんみ 「出来合いのおかず」派と「タコの水炊き」派の闘いですね(笑)。『魯肉飯』のおにぎりもそうですし、温さんもチョ・ナムジュさんも食べ物のシーンで登場人物の心理状況や変化をスッと描かれているのが本当にすごいなあと思います。例えば、家族団らんのためにずっと献身してきた母の話が描かれた「母の日記」では、ツナキムチチゲの食べ残しと冷えたご飯を食べていた主人公が、最後ではすしを食べに行こうと心を決めます。これだけで新たな変化が感じられるんですよね。