マンガ 認知症

番外編 どうして「ありがとう」と言ってくれないの?

『マンガ 認知症』をご愛読いただき、ありがとうございます。
おかげさまで重版が続き、嬉しい反響に喜んでおりましたが、筑摩書房のホームページに「『マンガ 認知症』に書いていなかったこと」について投稿をいただきました。
この投稿を受けて、認知症の祖母の介護に悩んでいたマンガ家・ニコさんが、再び認知症の専門家・サトー先生のもとを訪れました。
サトー先生、どうして何をしても「ありがとう」と言ってもらえないんですか――?

 おひさしぶりです。認知症の心理学を研究している佐藤眞一です。『マンガ 認知症』をたくさんの方に読んでいただいて、とてもうれしく思っています。
 そして、ichigoiceさん、本書の感想を投稿してくださってありがとうございました。私たちからご連絡できないのは歯がゆいですが、文面から、この2カ月の間に、認知症に伴って生じる行動上の困ったことが、どんどん目に入るようになってきた、気づくようになってきたという状況ではないかと推察します。

 

 

 問題行動に気づいて注意を向けるようになると、お母さんの行動に想定外のことが多くなっていると感じると思います。行動に予想がつかなくなって、それまでは「お母さんの気持ちはこうだろう」と想定できていたのに、違うお母さんがそこに出てくる。認知症の介護はそれが苦しいんですね。理由がわからないと、「なんでそんなことをするんだろう」とつらいばかりです。
 大前提として、まだ医師の診断を受けていない場合は、お母様と一緒に地域のかかりつけ医か、認知症の専門医である神経内科か精神科、あるいは物忘れ外来を受診してください。まずは地域包括支援センターに行ってみて、ケアマネージャーさんや社会福祉士さんとお話しし、専門家の判断で必要な医療につなげてもらうのもいいでしょう。
 この番外編では、すでにお母さんが認知症ということがわかっていて、ichigoiceさんが認知症であるお母さんの行動を知るために本書を手にとってくださったものだと考えて、「なぜ『ありがとう』と言えないのか」について考えていきます。

■感謝とはなにか
 この投稿を拝読して、まず「感謝」の定義を調べました。
 マンガでは簡単に説明しましたが、心理学では「感謝」をこのように定義しています。
 「他者の善意によってもたらされたと知覚した恩恵の受領に対する肯定的な感情反応」(Tsang,2006)
 これは比較的新しい定義ですが、「本人が知覚している」というのが心理学的ですね。
「してもらったことへの反応」ということで言うと、『マンガ認知症』第10章でご紹介した、「心理的負債感」という言葉を思い出すと思います。これは「介護する/される関係のなかで、介護される側にしてもらったことへの負い目が生まれる」ということですが、この場合は何かをしてもらったことで「借りができた」というネガティブな意識が生まれています。「感謝」のほうは「肯定的な感情反応」、つまりポジティブな感情が生まれるということがポイントです。
 つまり、何かをしてもらった人に「感謝」の気持ちが生まれるには、その人にとってそれが「善意」でしてくれた「恩恵」だと感じられ、かつそのことでポジティブな感情が生まれなくてはいけません。
 マンガでもお話ししたとおり、認知症の方には言葉ではなく「気分」が伝わります。腹を立てている時、機嫌が悪い時にしてあげたことは「善意」だとは伝わらず、どんなにいいことでも「恩恵」とは感じられないかもしれません。また、「情動感染」がありますから、介護する側のネガティブな気分が伝わってしまっている可能性もあります。

■感謝がないと絆が壊れる
「ありがとうと言ってもらえない」に似た、認知症の家族を介護する方のお悩みで「何をしても文句ばかり言われる」というのはとても多いのですが、これは、いろいろなことができなくなり、自分自身の存在も不確かになっていく認知症の人の不安が、身近な家族にぶつけられているのだと考えられます。ただ、頭では「そうなんだ」と理解できていても、文句ばかりで感謝されないということが続くと、介護する側とされる側の絆が傷ついてしまいます。
 英語で感謝するときに使う言葉は「Thank you」ですね。Thankは「ありがとう」「感謝」。Youは「あなた」。感謝には相手がいるわけです。感謝の効用は、ある人からの恩恵に対して感謝という行為を返すことで、互いの絆が強くなることです。人間関係をつくり、維持し、発展させるということを、「感謝」が促進します。それがなければ、介護する側とされる側の絆は弱くなり、相手を思いやる「ケア」は難しくなっていくでしょう。
 介護する側もストレスがありますから、傷つきやすい状態になっています。ポジティブな言葉がほしいし、承認されたい、対等でいたいといった、他者からの返報を求めます。感謝の言葉があればその気持ちが救われるけれども、それがない。ニコさんのお母さんも、介護中は「何をしてあげてもやりがいがない」とよく仰っていたそうです。お金や物じゃなくていい、言葉だけでいいんだと思っても、コミュニケーションが難しいとか、思いやりの気持ちを持てないという問題もあって、何も返ってこない。そうなると介護する側は心の余裕もなくなるし、ケアの根幹である、「本当にその人のことを考える」ための関係性の維持ができなくなってしまうのです。

■良い意味で「あきらめる」
 このように考えていくと、「ありがとう」と言われないというichigoiceさんの投稿は、認知症介護における切実で本質的な問題だと言えます。
 ここまで見てきたことを総合すると、感謝がないからお互いの関係が悪くなり、ネガティブな気持ちになってしまうのだけれども、感謝が生まれるためには介護する側もされる側もポジティブな気持ちでいるほうが良い、ということになりますね。出口がないようにも思えますが、まず介護する側が楽な気持ちになるための鍵があります。それが「諦観」、良い意味でのあきらめです。
 ichigoiceさんの投稿には「劣化」というかなりキツい言葉が使われていました。私は、これは苛立ちの表現というよりも、ichigoiceさんが、お母さんが認知症であることを納得し、受け入れる過程の葛藤を表しているのではないかと思いました。
 お母さんのできないことがどんどん増えていく。でもお母さんがもとのお母さんであると思いたい。だから、お母さんの「機能」の部分が壊れていっているのだと表現したのではないかと思ったのです。
 この番外編のための取材のなかで、ニコさんが、「あきらめきれない」と仰っていたのが印象的でした。自分のお母さんだし、お婆ちゃんだし、いつかこの気持ちが通じるという希望があきらめきれないと。それは、家族の関係性があり、愛情があるからですよね。その気持ちは持ちながらも、「世の中ってそんなもんだ」「自分だけでどうにかなるものじゃない」と受け止める。それを良い意味でのあきらめ、「諦観」と言っています。現在はまだ、認知症は治らない病気です。でも、体の病気ではないので、なんとかできるという気持ちが拭えない。「仕方ないんだ」ということを受け止めるまでに時間がかかるんですよね。

■認知症を知る
 今ichigoiceさんは、あきらめる過程にいらっしゃるのだと思います。ゆっくりと向き合いながら、本や専門家に学んで、お母さんの要求に対して何ができて、何ができないのかを知るという「あきらめ」にもチャレンジしてみてください。
 ニコさんの『マンガ 認知症』のあとがきにありましたが、認知症の人の心を知ることで、「これは自分にはどうしても叶えられないんだ」と良い意味であきらめることができると、罪悪感が減ってポジティブな気持ちになる助けになります。
 もちろん、何ができるのかを知ることも大切です。認知症の人にしてあげていることが、恩恵ではなく「嫌なこと」になっていないかどうか。
 例えばお風呂に入れる時。認知症の人で、体を触られたり見られたりするのが嫌だということで、お風呂に入りたがらない方は少なくありません。でもお風呂に入ってスッキリしたとか、気持ちよかったとか、そのときに優しい言葉をかけられた、といったことがポジティブな気持ちとして残れば、その人にとってお風呂が良いものになり、行動が変わる可能性があります。これは心理学でいう動機づけの理論ですが、お風呂に入るとこんなに良いことがあるという「誘因」と、こんなに嫌なことがあるという「阻害要因」があって、誘因のほうが大きくなればお風呂に入ります。
 介護施設でよく言われるテクニックとしては、お風呂に入りたがらない人には「お風呂に入りましょう」と言わない、というものがあります。まず立ち上がってもらって、歩いてお話をして、笑顔を誘うような話をしたときにふっとお風呂に入れる。お風呂場でも、他の利用者が「気持ちよかった」と言っているのを聞かせたりして、お風呂は良いものだという印象を持ってもらうようにします。
 これは一例ですが、こうやって認知症の人にとって良いと感じられることをすれば、それは「恩恵」になるでしょう。
 感謝は「肯定的な感情反応」ですから、それが「ありがとう」という言葉だとは限りません。笑顔やちょっとした行動、その時の雰囲気で、感謝の気持ちを受け取れるかもしれません。

■人に頼る
 そして最後に、「介護の責任をすべて自分が追わなければ」という思いもあきらめて、第三者を頼りましょう。肉体的、精神的な負担が減るのはもちろんですが、20年近く前にこんな研究をしたことがあります。
 100歳の長寿の方と、その介護をしている方がいます。そこに第三者が入って、長寿の方を「100歳ってすごいですね」と褒める。そうすると、長寿の方と介護者の関係がよくなるのです。自分がそんなにすごい人の側にいることがありがたいと思うんですね。

図 人間関係のバランス

 この番外編に引き寄せて言えば、二人の関係に閉じこもらず、ポジティブな気持ちを外からもらう、ということでしょうか。
 同じ悩みを持つ人たちが集まる家族会に行ったり、ケアマネさんに相談したりというのもいいと思います。
 良い意味での「あきらめ」で自分の心を少しでも楽にし、そのポジティブな気持ちがお母さんに伝わるといいですね。

 

『マンガ 認知症』特設ページを公開中です!http://www.chikumashobo.co.jp/special/manga_ninchisho/

また、細馬宏通さん(人間行動学者)による素敵な書評はこちらからお読みいただけます。

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