●「男になる」こと
さて、ここまで「愛の遂行」を軸に物語の流れを整理してきたが、今節からは「愛の遂行」を目指す過程がどのように描かれているのか、ジェンダーの観点から詳しく検討していきたい。
先に指摘した通り、『BEASTARS』の主軸はレゴシとハルの恋愛にあり、それはレゴシとルイの友情の成立を踏まえた「本能」の超克によって成就する。ここで重要なのは、レゴシ―ハル間の関係性(「男女」)の成就の手段となるのがレゴシ―ルイ間の関係性(「男」と「男」)であり、目的達成のためのレゴシの奔走が「男」の成長譚として描かれているということだ。
それが最も象徴的に出てくるのが、ハルが裏市を牛耳るライオンのヤクザ・シシ組に誘拐されるシーンである。時期としてはリズとの対決以前、コミックス5巻から6巻に当たる。
レゴシはハルと恋に落ちたはいいものの、ハルがルイと関係を持っていると知って一度恋路を諦めようとした。そんな折、ハルがシシ組に攫われてしまう。レゴシはハルを助けるため、ルイに協力を仰ぎに行くが、ルイは政治的なしがらみによってハルを見捨てざるを得なくなっていた。それを知ったレゴシは動かないルイに怒り、「ハルは俺がもらう【20】」と喝破して、単身シシ組へ乗り込むのだ。
レゴシは戦闘において、ハイイロオオカミ最大の長所であるアゴの力を用いない選択をする。これはレゴシにとって「本能」の抑制を示しているが、そのときレゴシの師であるパンダ・ゴウヒンから言われるのが、「自分の獣を飼いならせレゴシ それがこの世界の一丁前の男よ【21】」という台詞だ。レゴシは自らに制約を課すことで「本能」のコントロールに挑み、「男」になろうと試みるのである。
だが物語はこの挑戦通りに進まない。レゴシはシシ組との戦闘の中で、人生で初めて他者との「殺すか殺されるか」の状況を経験し、擬似的にハルの日常と同じ状況に立つ。過酷な戦いを経たレゴシは、シシ組組長を倒す最後の手段として、アゴの力を用いた「噛みつき」を行使するのだ。レゴシは最終的に、自分の「獣」=「本能」をハルに捧げる選択をし、それを以て己が大型肉食獣に生まれたことを肯定するに至る。
ここでは不思議なねじれが生じている。当初レゴシは「本能」のセルフコントロールを通じて「男」になり、その結果としてハルの「入手」に成功するかのように見えていた。しかし最終的には、レゴシは「本能」ごと自らをハルに「入手させる」ことで、結果として「男」の成長を遂げるのだ。この転倒は、いかに解釈すべきだろうか?
一連の流れを理解するためには、作中における「幸せ」概念への着目が必要だろう。『BEASTARS』では誰かを能動的に「幸せ」にしようとする姿勢が、特にハルの目を通じて、「男らしさ」として描かれている。具体的には、レゴシを慕うハイイロオオカミのジュノに「あなたレゴシ先輩を幸せにできるんですか?【22】」と迫られたハルが「『レゴシくんを幸せに』って… なんかいいねー その男らしさ【23】」と返事をするシーンや、ハルから「父親みたいに振る舞おうと努力しているのがおかしい【24】」と笑われた直後のレゴシが「俺に任せろ 1匹たりとも不幸にはさせない【25】」と宣言するシーン等がそれに該当するだろう。さらに言えば、『BEASTARS』における「幸せ」の具体像は、その多くが円満な家庭生活である【26】。
これを踏まえ、シシ組事件後のレゴシがハルに初めて告白する場面のセリフを参照する。
「男女である以前にあなたはオオカミ わたしはウサギなの! 永遠に!【27】」
「…ハルちゃん 俺もっと強くなるよ」「この社会にも本能にも負けないで 君をちゃんと幸せにしたいから」「俺 もっと強くなる」【28】
ハルは自分たちの関係性は根本的には「オオカミとウサギ」に過ぎず、「男女」の関係に至ることが不可能である、と主張している。それに対してレゴシは、社会と「本能」を「強くなる」ことで超克すれば、ハルを「幸せ」にできる、と考えていることがわかる。
この状況に、先に確認したことを代入しよう。レゴシがハルを「幸せにする」ことは、それすなわちレゴシが「男」になることだ。ハルのセリフを併せて考えれば、二人が目指すのは「オオカミとウサギ」という「本能」の関係を乗り越え、「男女」になることだと理解できるだろう。
つまり超克の作法がどのようなものであるにせよ、二人が越えようとしているのは肉食獣/草食獣という二元論に基づく「本能」であって、乗り越えた先にあるのもまた、「男」/「女」という(『BEASTARS』においては)本質的な二元論なのだ。だからこそ、レゴシが自らをいくらハルに捧げようとも、それは揺るぎなく「男」になる過程であり、それ以上の解体――二人がただの「個」と「個」に至るような脱構築――は行われないのである。