彼女たちの戦争

第14回:湯浅年子

PR誌「ちくま」の2020年の表紙を飾り、多くの反響を呼び起こした「彼女たちの戦争」が、場所をwebに移して新たにお目見えします。歴史のなかで、女性であるがゆえに脇に押しやられながら、その才能をたしかに輝かせた女性たちの闘いの軌跡。
コレージュ・ド・フランスの屋上にて1941年 31歳

 

 物理学を志し、日本からフランス、パリへ渡りコレージュ・ド・フランス原子核化学研究所で研究した湯浅年子。女であることに、日本人であることに、戦争に、翻弄されながらも、生涯研究を突き詰め続けた彼女。彼女に降りかかる現実はいつも厳しく、そこを生き抜く彼女もまたどこまでも自分に厳しい。

 発明家の父(特許庁に勤めていた頃にはスイスでアインシュタインにも会っている)と歌人の橘守部を曾祖父とする母のもとに生まれた彼女。短歌をはじめ多様な文化をたしなみながら東京女子高等師範学校へ進学。自然現象の根源を追究する物理学へとまっすぐに向かってゆく。東京帝国大学理学部物理学科では、日本でははじめての物理学科女子大学生となった(つまり同級生はもちろん全員男子学生)。
 その後は、日本ではじめての理学博士であった生物学者の保井コノにも背を押されたり、イレーヌ・キュリーとフレデリック・ジョリオ=キュリー(マリ・キュリー(「彼女たちの戦争」1参照)の長女と娘婿、共にノーベル賞受賞)の研究に出会ったりと、物理学への道を邁進してゆくことになる。

 彼女は遂に念願のフランス留学機会を手に入れた。しかし、ようやく到着したパリはほどなくしてナチ・ドイツに占領された。日本には死が近い胃癌の父を残してきていた。
 それでも彼女はフレデリック・ジョリオらの助けを受け、ナチ占領下のコレージュ・ド・フランスで懸命に研究を続ける。そうして学位審査にも合格、フランス国家理学博士の学位を贈られることになったのだった。しかし沸き起こる拍手や祝福の声をよそに、彼女はこう書き残す。
「皆が代わる代わるきては「おめでとう」と握手をして行く。何だか泣きたいような気持ちでいる。皆が去ってただ一人広い講堂に残ったとき、言いしれぬ淋しさが濤(おおなみ)のようにおそってきた。
 父がいない。母もいない。私はこんなに憂鬱になるとは予期していなかった。不十分な論文を提出したことに対する悔いが大部分をしめている。――

  恐ろしき虚無みつめ居り吾が仕事なれりといへるこの朝にして」

 過酷な戦時下、女が遠い異国の地でこんなにも努力を続け、ついに論文を提出し認められ、学位さえ手にしたのだ。にもかかわらず、彼女はこんなにも自らに手厳しい。
 マリ・キュリーの才能に憧憬を抱き、常に崇高な理想へ向かい続けるその努力は、並々ならないものがある。実際、その努力と厳しさなしには、決して彼女がそこにあることは叶わなかったであろう現実を前に、私は思わず胸が詰まりそうになる。
「地に伏して泣かまくほしと思ふ日も常の如くにふるまひて居り」

 やがて戦況が悪くなると、日本人である彼女は遂にパリを離れ、日本と同盟国であるナチ・ドイツへ向かわなければならなくなる。ベルリンではオットー・ハーン(研究パートナーのユダヤ人リーゼ・マイトナー(「彼女たちの戦争」7参照)とともに核分裂を発見した人物)らのもとで研究を続けるが、日本軍からの無理な要請も激しく、研究は思うようにすすまない。やがてナチ・ドイツは降伏、モスクワ経由で日本へ送還され、帰国して後、母の死と敗戦を目の当たりにするのだった。

 戦後は、日本で女の地位向上や科学の普及に努め、やがて、ふたたびパリのフレデリック・ジョリオ=キュリーのもとへ戻り研究を続け、その生涯をパリで過ごすことになる。
 晩年も病をおしつつ研究や仕事、日仏の交流に心を砕き、その死の直前まで、日仏共同研究実現のために奔走し続けた。
 彼女が息絶えたのは、その名も「放射線」発見者であるアンリ・ベクレルを冠したアントワーヌ・ベクレル病院。享年七十歳。
 その死の二年前――それはちなみに私自身が生まれた年でもある――抱負として書き残した彼女の言葉を読むたびに、私は背筋が伸びるし、今を切り拓いてくれた彼女の信念に涙がこみあげてくる。
「一九七八年一月一日(略)
今年心がけること
*完璧さ *寛大*完璧さ *寛大さ *願望をあまり押しつけない *いつも真実の傍らに居続けること」


(引用参考文献:山崎美和恵『物理学者 湯浅年子の肖像 Jusqu'au bout 最後まで徹底的に』梧桐書院、「お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ〜先駆的女性研究者データベース〜」https://www.lib.ocha.ac.jp/archives/researcher/yuasa_toshiko.html)

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