
彼女は若く美しく才能がある。彼女はやがて、スキャンダラスではあるが権威ある中年の男に見初められ弟子になる。彼女の美貌と才能に、男はたちまち魅せられる。
彼女は男のミューズになる。彼女は男の弟子としても、男の仕事を手伝い、男の仕事の相談に乗り、男の手足になって働いた。
やがて彼女を男は愛人にする。男には内縁の妻がいたけれど。
彼女の名はカミーユ・クローデル。
男の名はオーギュスト・ロダン。フランス、パリの彫刻家として歴史に名を残す(ちなみに上野の国立西洋美術館にも《考える人》や《地獄の門》がある)人物である。
やがて彼女は妊娠。彼女は子どもを望んだが、男は中絶させた。
そうしてふたりの関係は破局を迎えることになる。
しかし、驚くべきことに、すべてを失うのは彼女だけだった。
彼女は師を、恋人を、赤子を失った。それだけでなく、彼女がこれまで男のために費やした労力も時間も仕事ももう返ってきやしない。彼女の姿はミューズとして男の彫刻に彫られたかもしれないが、別段それは彼女自身の彫刻が評価されることには役立たない。
正直、このパターンが、これまで世界のあちこちでどれほどまでに繰り返されてきたことか、と想像すると絶望的な気分になる(現代でも、あるあるだよね!)。
しかしそもそも全くの男の世界に、たったひとり女として乗り込んでゆくとき、他にいったいどんな道があるというのか、どんな道を選べるというのか。
彼女の彫刻をパリのロダン美術館ではじめて目にした時、私は息が詰まりそうになった。
去ってゆく男を追い縋るように手を伸ばす女のブロンズ。その指先は、決して届かないし触れ合わない。
『L'age mûr (分別の年代)』
それはロダンとの破局と重ねて語られることが多い。
けれど私には、その女が縋ろうとするのはただひとりの男というよりも、社会や世界そのもののように思えてならない。
彼女はこの社会に、世界に、すがりつこうとする。
彫刻をもってしてそこに挑み、戦おうとする。
しかし彼女に投げかけられる言葉は「女性の天才の完璧な姿」かと思えば、「ロダンの才能のカリカチュア」。だれも彼女を彼女そのものとして見ようとしない。彼女は打ちのめされる。
結局、誰一人その手を握り、すくいあげることなく、狂気の底へ沈んでいった彼女。
錯乱状態になった彼女は、49才。精神病院へ入院させられる。
もう若くない彼女は肥え太り、部屋は不潔なほどに汚れ、ロダンたちが彼女の仕事を妨害し嫌がらせをしてくるというせん妄に囚われていたという。
「あなたが精神病院のためにお金を使うのを見ていると残念です。そのお金でわたしは立派な作品を作ったり、快適な生活ができるはずなのに。本当にひどい!涙が出ます」
彼女はこう手紙を書き送る。
けれどこれまで経済的にも彼女を助けていた弟のポール・クローデルももう彼女を助けはしない。弟はちょうど彼女の生を反転するように、次第に作家としての人気を博し成功への道をかけあがっていた。
その後三十年あまりを精神病院で過ごした彼女は、たったひとりで死んでゆく。享年79才。
唯一の希望は、かつてまだ彫刻をはじめたばかりの幼い彼女が暮らしたノジャン゠シュル゠セーヌの街に、2017年、彼女の名を冠した、彼女のための美術館ができたこと。
いまようやく、私たちは、彼女自身のための美術館で、彼女の作品に出会うことができる。
*参考文献
『カミーユ・クローデル』アンヌ・デルベ著 渡辺守章訳 文藝春秋
musée Camille Claudel