●虎杖の「理由」
ここまで呪術師の労働モデルについて確認してきた。では主人公である虎杖は、この罠の中でいかに呪術師の労働と向き合うのだろうか。以下、虎杖の「理由」の変転を時系列で追いかけてみよう。
最初の基盤となるのが、虎杖の唯一の肉親であった祖父の遺言である。「オマエは強いから人を助けろ」「手の届く範囲でいい 救えるやつは救っとけ 迷っても感謝されなくても とにかく助けてやれ」「オマエは大勢に囲まれて死ね 俺みたいにはなるなよ」【34】――粗暴な言動のせいで孤独な晩年を過ごしていた虎杖の祖父は、虎杖に他者を助けるために力を使うよう教え、そのまま逝去する。虎杖が人生で初めて呪術戦に遭遇したのは、この祖父が亡くなった日の夜であった。虎杖の通う高校に安置されていた宿儺の指を回収するべく、呪術高専の一年生・伏黒恵が派遣されてきたのだ。
虎杖は伏黒と呪霊との戦いを目にする中で、呪霊による殺人を「間違った死」、そして祖父の死を「正しい死」であると感じ、前者を後者に導くことを遺言の継承として捉えた。虎杖が宿儺の指を飲み込んだのも、「手の届く範囲」で「間違った死」を迎えかけていた伏黒を助けるためである。結果として虎杖は死刑宣告を受けるわけだが、伏黒は虎杖を死ぬべきではない「善人」だと判断し、五条に「私情」で助命嘆願を行った。結局虎杖は伏黒の「私情」によって執行猶予を得る。ここで成立した虎杖―伏黒間の相互の救済関係は、のちのちまで重要な線として機能することとなる。
そして最初に虎杖の「理由」を批判するのも、ほかならぬ伏黒であった。
「オマエは大勢の人間を助け 正しい死に導くことに拘ってるな/だが自分が助けた人間が将来人を殺したらどうする【35】」……物語序盤の「呪胎戴天」編で伏黒が虎杖に投げかけた問いは、二人の間にある差異を端的に示す。
伏黒は自らの「理由」を、「少しでも多くの善人が平等を享受できる様に/俺は不平等に人を助ける【36】」と表現する。ここで規定されている「善人」の基準は伏黒の「良心」だ。伏黒自身、この「理由」は自己裁量で成立する「我儘な感情論【37】」だと自認しているが、「でもそれでいいんだ/俺は正義の味方じゃない 呪術師なんだ【38】」と開き直って見せた。伏黒の語りを聞き届けた虎杖は、伏黒も「正しく」、同時に自分も「間違っていない」のだと結論づける。ここで最初の「正しさ」の相対化が行われている点は、注目してよい。
次いで、虎杖の考える「正しい死」の揺らぎは、単行本3〜4巻に収録された「幼魚と逆罰」編においてターニングポイントを迎える。この事件で虎杖は、対象の魂に触れて肉体ごと形を変えてしまう術式「無為転変」を使う人型呪霊=真人(まひと)と初めて対峙した。真人はあらゆる感情を「魂の代謝」に過ぎないと切り捨て、殺人・戦いの愉悦を呪いが従うべき「本能」であると位置付ける。真人はこのスタンスに基づいて、興味本位で改造人間を生み出しては、面白半分に殺していった。
「なんつーか一度人を殺したら 「殺す」って選択肢が俺の生活に入り込むと思うんだ/命の価値が曖昧になって 大切な人の価値まで分からなくなるのが 俺は怖い」【39】
真人と会敵する以前の虎杖は、任務の最中に親しくなった高校生・吉野順平に「悪い呪術師に出会ったら殺すのか」と聞かれ、上記のように答えている。「殺す」行為を己の人生から退け、全員を生かそうと志向していたのだ。しかし真人と戦う中で、順平を目の前で弄ぶように殺された虎杖は、人生で初めて本気の殺意を覚えるに至った。そして実際に、真人の作った改造人間三人に自らの手でとどめを刺す。虎杖はついに、殺し/殺される関係に足を踏み入れたのである。
「…ナナミン 俺は今日人を殺したよ/人は死ぬ それは仕方ない ならせめて正しく死んでほしい そう思ってたんだ/だから引き金を引かせないことばかり考えてた でも自分で引き金を引いて分かんなくなったんだ/正しい死って何?」【40】
虎杖は不条理な死の抑止を使命と捉えてきたものの、自らが死に物理的な介入をしたことで、罪と責任に悩み始める。ここで質問された七海が「正しい死」について何らかの指針を示したなら、虎杖は苦しまずに済んだのかもしれない。だが七海は「分からない」と答えたし、七海でなくとも、作中では誰一人「正しい死」の答えを知らない。呪術師が介入する生と死は「一般社会」からは見えず、明瞭な指針はない。あとは呪術師一人ひとりが現実と理想の擦り合わせを試みつつ【41】、考え続けるほかないのだ。この答えの出ない問いを背負うことこそ呪術師になることと同義であると、『呪術廻戦』は語っている。虎杖はこの通過儀礼を経て、「正しい死に様なんて分かりゃしない/ならせめて 分かるまで アイツを殺すまで/もう俺は負けない」【42】と決意するに至るのだった。
改めて全体を見通すと、呪術師一人ひとりのスタンスについて、「正しい」/「間違っている」という基準が通用しないことが常に念押しされているとわかる。
個人的な「正しさ」の相対化自体には意義があるだろう。冒頭でも書いた通り、パーソナルな正義が物語を牽引する絶対的な原動力になる物語は、他者に対して開かれない。『呪術廻戦』は、少なくとも今のところ「正解」のない世界を描き続けている。その「正解」のなさは、作中では見えない場所に生きる人の存在もある程度包摂するだろう。
それでも『呪術廻戦』の個人の正義の扱い方には危うさが残る。同作において「理由」を個人の意志に依拠して立てる行為が社会と個の切断になっていること、同作が社会正義の敗北を前提としていることはすでに確認した。その上で「正しさ」の価値が「間違っている」と変わらないところまでフラットに均されるとき、そこで生じるのは社会正義の敗北の先、社会正義の無価値化なのである。
虎杖が「もう俺は負けない」と決意したのち、伏黒が虎杖とのスタンスの違いについて改めて話すシーンを引用してみよう。
「虎杖/オマエ 強くなったんだな/あの時俺達それぞれの真実が正しいと言ったな その通りだと思う 逆に言えば俺達は二人共間違ってる」「そうだ 答えなんかない あとは自分が納得できるかどうかだ/我を通さずに納得なんてできねぇだろ 弱い呪術師は我を通せない/俺も強くなる すぐに追い越すぞ」【43】
伏黒は「答え」――指針、あるいは社会正義を代入してもよい――の不在に対し、「答え」の追求ではなく、「納得」=個人的な「正しさ」の追求で対応している。そして自らが納得しうる選択をするためには「強く」ならねばならない、と語るのだ。
前節で論じた呪術師の労働モデルという罠に照らして考えれば、伏黒の発言はまさに罠のど真ん中に嵌まっている。身動きの取れない罠の中を生きるためにできる最善の行動が「我を通」すために「強くなる」ことならば、主体は呪術師労働モデルへの適応をより激しく要請され、罠はさらに深く食い込むだろう。だが呪術師が長生きできない仕事であり、虎杖については最初から未来がない以上、虎杖らが社会正義の再構築ではなく個人的な「理由」の完遂で「今」を乗り切ろうとするのは、ある意味当然の帰結である。未来は暗く、時間は限られている。この感覚を持って罠の外側を創造するのは、とても難しい。