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第2回 罠の外を知っているか?――『呪術廻戦』論(2)

アナキスト/フェミニストの高島鈴が、社会現象級の大ヒット作を正座で熟読。マンガと社会を熱く鋭く読み解く、革命のためのポップカルチャー論をお届けします。
第2回は、アニメ化を機に4500万部の大ヒット作となった芥見下々『呪術廻戦』(2018年より連載中/集英社)。連載開始と物語の始まりは同じ2018年。明確に「今」を描く本作において、子どもたちはなぜ戦うのか――。

●ケアとしての共犯関係
 ここまで『呪術廻戦』における社会正義の敗北/無価値化、個人的「理由」による社会と個の遮断について確認してきた。この状況で浮かび上がるのは、個人の「理由」という私的領域だけではない。個人と個人の情動的な繋がりもまた、呪術師を支える糸として見出されてくる。作中で示される「共犯」の概念は、この点を考える上で重要だ。
 最初に「共犯」という言葉を持ち出したのは、釘崎野薔薇であった。釘崎は高専一年生三人が派遣された八十八橋(やそはちばし)の任務で、虎杖とともに呪霊の受肉体二体と戦闘に及び、それぞれを撃破する。
 虎杖は戦闘後、「釘崎大丈夫か?」「初めてなんじゃねぇかと思って 祓ったんじゃなくて殺したの」【44】と声をかけた。虎杖にとって、人体の殺害は初めての経験ではない。すでに虎杖は真人との戦いの中で、三人の改造人間を殺害している。殺す以外の手立てがなかったとはいえ、殺害の責任は虎杖の胸に重くのしかかっていた。虎杖は釘崎も同じ罪悪感の渦中にいるのではないかと気遣ったのだ。
 しかし釘崎は淡々とした様子で、「私はぶっちゃけなんともない」「私の…人生の席…っていうか そこに座ってない人間に私の心をどうこうされたくないのよね」【45】と応じる。だが一方では虎杖の感じている罪悪感も否定せずに受け止め、「共犯ね 私達【46】」と語りかけた。
 ここで示されるのが、「あなたは悪くない」という免責や「つらかったね」という慰めではなく、「共犯」なのが肝である。
 これまで虎杖は、存在そのものを否定され続けてきた。宿儺を身に宿した時点で虎杖の生存を擁護したのは伏黒と五条のみであったし、七海も虎杖に命を救われるまでは虎杖を呪術師として認めていなかった。京都にある姉妹校との交流戦では、保守派で知られる学長の命令で京都校の学生たちが虎杖を殺そうとした。
 これら「虎杖死すべし」の声に抵抗するよすがとなっていたのは、「宿儺の器」として、そして呪術師としての虎杖の「有用性」である。これは単なる建前ではなく、虎杖本人にとっても自身の実存を許す「理由」として機能していた。
 本来、「人が存在していてよいかどうか」という問いは絶対的に間違っている。どんな人間も生きることに理由など必要ない。だが『呪術廻戦』はここまでの積み重ねで、虎杖が決してそう思えない状況に置かれているとくどいほどに説いてきた。罠的な呪術師の労働モデルに加え、宿儺という爆弾の存在が大きい。虎杖は生きるために、自分の責任を実践で果たしていかねばならないと思うほかない場所、罠のドツボ、、、、、に立っている。
 ゆえに虎杖を生かすのは、虎杖が背負っている(と自認している)責任を軽くする/なくすことではない。一方的にそのような免責を行なったとしても、もっとも自らの責任を痛感している/させられている虎杖自身の納得には繋がらない。より責任を重くし、そしてその責を負う仲間を増やして「逃げ道」をなくしていくことこそ、「共犯、、という鎖を介した、、、、、、、、生への繋留、、、、、であり、「ケア」なのだ【47】
 なお、ここで「共犯」の語で明示される関係性は虎杖―釘崎間のみであるが、物語全体を見渡すならば、伏黒も含めた三つ巴の共犯関係が展開されていると読んでよいだろう。虎杖―伏黒はお互いの命を助けたことで互いに責任を負いあう仲に発展してゆくし、伏黒―釘崎もまた虎杖の生存を擁護する間柄として描かれている。
 虎杖自身の「理由」と「有用性」、そして「共犯」関係。罠のドツボで虎杖の生を支えるこれらの糸が崩れ去るのが、単行本10巻から続いている「渋谷事変」編である。

【24】『呪術廻戦』8巻、84頁
【25】同9巻、121頁
【26】殉職した灰原の死を間近に経験し、高専卒業後に一度一般企業に就職した(呪術師から「逃げた」)七海は、夏油の離反について「責める気にはなれない」(『呪術廻戦 公式ファンブック』60頁)と考えている。「呪術師」という労働に誠実であろうとした人間が最も傷つくのだと、七海は知っているのであろう(『呪術廻戦』4巻、126頁)。
【27】『呪術廻戦』8巻、84〜85頁
【28】『呪術廻戦 公式ファンブック』、41頁
【29】『呪術廻戦』2巻、67頁など。五条の人格上の問題は作中特に強調される。
【30】ここで「ねじれた」と言っているのは、夏油が言う通り呪術戦においては呪術師が強者・非術師が弱者であるためである。呪術師を単純に現実の社会的少数者と重ねて論じることはできない。
【31】『呪術廻戦』1巻152頁では伏黒が五条を、9巻131頁では夏油が九十九をそう評している。
【32】松沢裕作『生きづらい明治社会――不安と競争の時代』(岩波書店)
【33】同151頁
【34】『呪術廻戦』1巻、23〜24頁
【35】同1巻、163頁
【36】同2巻、40〜41頁
【37】同2巻、43頁
【38】同2巻、43頁
【39】同3巻、164〜165頁
【40】同4巻、125頁
【41】同4巻、82頁
【42】同4巻、131頁
【43】同7巻、21〜22頁
【44】同8巻、28〜29頁
【45】同8巻、30頁
【46】同8巻、33頁
【47】ここで相手の精神的な負荷をケアしようと試みるのが「男性」ジェンダーの虎杖であり、責任の折半という解決策を持ち出すのが「女性」ジェンダーの釘崎である点は、ジェンダーステレオタイプに同調しない描き方として評価できる。

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