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第2回 罠の外を知っているか?――『呪術廻戦』論(3)

アナキスト/フェミニストの高島鈴が、社会現象級の大ヒット作を正座で熟読。マンガと社会を熱く鋭く読み解く、革命のためのポップカルチャー論をお届けします。
第2回は、アニメ化を機に4500万部を超える大ヒット作となった芥見下々『呪術廻戦』(2018年より連載中/集英社)。連載開始と物語の始まりは同じ2018年。明確に「今」を描く本作において、子どもたちはなぜ戦うのか――。

●『呪術廻戦』とジェンダー、現実との連続性
 極めて現代的な絶望・諦め・不安が充満した同作は、現実と共通する具体的な文脈を持ったモチーフをどのように取り扱っているのだろうか。最後に物語全体の分析を離れ、物語と現実の社会との連続性がどのように描かれているかを検討しておきたい。
 筆者はかつて『呪術廻戦』について、現実との連続性を重要視した作品であると評価したことがある【61】。具体的には、釘崎が真依の容姿を侮辱する場面に関して、相手を傷つける意図に基づいて行われた行為であるので真似をしないよう注意喚起が付された点【62】、疫病をモチーフにした呪霊が登場する場面では最低限罹患者を傷つけないためにすでに根絶された病を選んでいると表明された点【63】、ルッキズムの軋轢を描く回の存在【64】などをその証左に挙げた。
『呪術廻戦』とジェンダーの問題に関しては、単行本四〜六巻にかけて描かれる京都姉妹校交流会編の釘崎VS.禪院真依(ぜんいん・まい)&西宮桃(にしみや・もも)戦が象徴的である。同エピソードでは、西宮が釘崎に対し、女性呪術師、特に御三家出身者の直面する差別について説いて聞かせるシーンが登場する。

「呪術師が実力主義だと思ってない?」「それは男だけ」「女はね 実力があってもカワいくなければナメられる/当然カワいくっても実力がなければナメられる」「女の呪術師が求められるのは“実力”じゃないの “完璧”なの そして真依ちゃんはそれ以上の“理不尽”と戦ってるの」【65】

 真依は術式こそ持って生まれたものの、女性であること、そして実力がなかったことで、保守的な家の中では二重の差別的待遇を受けていた。西宮は釘崎に現実を突きつけるつもりで真依の話をしたが、対する釘崎はそれを自分には無関係だと言って退ける。

「男がどうとか女がどうとか 知ったこっちゃねーんだよ!! テメェらだけで勝手にやってろ!!/私は綺麗にオシャレしてる私が大好きだ!! 強くあろうとする私が大好きだ!!/私は「釘崎野薔薇」なんだよ!!」【66】

 この場面に対する評価も一言では言い表せない。野薔薇のセリフは、文脈上は呪術師業界における差別の被害経験を強引に共有しようとしてくる先達に対して拒絶を表明するものとして読解しうる。だが一方では、フェミニズムの課題を個人の能力で乗り越えうるものとして撥ね除ける、能力主義的なポスト・フェミニズム発言としても読めてしまう危うさも残る。
 しかしながら、女性差別が「ある」社会を問題のあるものとして自覚的に描く姿勢は、これまでさんざん女性を周縁化してきた『週刊少年ジャンプ』というプラットフォームに掲載されたことを含めて考えれば、悲しいかな画期的ですらあるのだ【67】
 この回に関して、作者はどのように考えていたのか。公式ファンブックに掲載された作者本人による各話解説を参照する。

[…]内容がちょっと現代的すぎるかなあと心配になりました。何となく誤読を招きそうでもあったし。[…]自分自身善悪の判断に自信がないので、そう言う意味でこういう現代的なテーマに触れるのは少し怖いです。普段、勝敗と各々の主張はあんま関係ないけど、この勝負に関してはなんで釘崎が勝ち切れなかったか分からない人は考えてみて欲しいです。とはいえ、芥見がそれっぽい事を言っていてもあまり期待しないでもらえると嬉しいです。芥見はいっぱい間違えますし、基本ダメ人間です。【68】

 筆者はこの解説文を読み、「残念」に近い印象を持った。
 作者は釘崎のイデオロギーが「正しさ」の提示になる可能性を避けようとしている。ここで釘崎が主張によって真依と西宮に敗北したのだと明示されているのは、釘崎の主張を相対化するためだろう。そこまではまだ納得ができる。確かに西宮が語っているのは、禪院真依、そしてその姉である真希――釘崎は真希を強く慕っている――がともに置かれている構造、、の話であり、釘崎はそれに対して真希・釘崎個人、、の話で返しているため、話は噛み合っていない。釘崎がいくら「私は真希さんが大好きだ」【69】「私が大好きだ」【70】と個人的な愛を叫ぼうと、真依・真希、そして女性呪術師全体を取り巻く構造が破壊されることはないのである――実際釘崎は目の前の西宮個人、、、、、、、、に集中していたがゆえに、〈釘崎対西宮〉の構図の外、、、、から射撃をした真依に打ち倒される。
 ただし物語の文脈上、京都校の学生は主人公である虎杖を殺害しようとする敵対者であり、釘崎はそれに対して話が噛み合っていないながら徹底的な拒絶を叩きつけるわけで、この釘崎の叫びは明らかに「かっこいい」魅せ場だ。釘崎の主張を相対化するための表現手法としてはあまり成功していない。
 その上で掲出されたコメントを読むに、筆者本人の「現代的すぎる」「それっぽい事」というぼかした語彙に加え、ダメ人間を自称し、期待しないでくれと乞うのは、センシティブな問題を表現する意義と責任の回避に等しい。この発言を経て『呪術廻戦』の「正しさ」の相対化を読み直すとき、その態度は個々の現実の尊重以上に、現実を個々のものとして過度に切断し、問題を公に問う道を閉鎖するやり方に映る。作者はおそらく「正しさ」の提示に不安を覚え、物語が自身の意見の主張になることを忌避しているのだろう。同作は現実に生じている問題には気付いていても、それを作者なりの意見で問題提起しようとは考えていないのだ。
 もちろん現実社会の状況を一切把握していないよりはよほどマシだろう(それでも表現上の問題はあり、特に冥冥の必殺技・「神風(バードストライク)」については批判せねばならない【71】)。だが問題の所在を捉えていながら主張も責任も避ける姿勢は、やはり危うい。
 呪術師の労働モデルにおいて「正しい」「間違っている」がフラットに均されることはすでに確認した通りである。確かに単一の「正しさ」は存在しない。だが人が集団を形成し、社会を作り出すとき、そこに共有されるべき「間違い」は存在すると筆者は考える。筆者の想定する社会正義とは、単一の「正しさ」というより、このような集団形成において生じる「間違い」に抵抗するための手段なのだ。ゆえに「正しい」「間違っている」が同義とされる社会は危ういのである。これは『呪術廻戦』が社会正義を描くべきである、という意味では必ずしもない――少なくとも現時点では、主張を相対化し続ける立場から抜け出す意図が作者にあるのかどうか、判断もできない【72】。ただ、同作が社会集団内部での理不尽に立ち向かうための道具として社会正義を信用も利用もしていないことは、明確に「今」の社会を満たす不安を示しているように思われるのである。

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