ちくまプリマー新書

なぜリスクの問題に心理学がからむのか?
『リスク心理学』(中谷内一也著)より本文を一部公開

コロナから原発、飛行機事故から児童虐待まで――。『リスク心理学――危機対応から心の本質を理解する』(ちくまプリマー新書)が好評発売中! 遭遇するかもしれない望まざる事態を、われわれの心がどのように受け止め、どのように反応しようとするのか。危機に対応する心の動きには、人間の本質が浮かび上がる。本記事ではリスク心理学誕生の背景に迫ります。

リスク心理学の誕生

「リスク心理学が生まれたのは西暦○○年」という決まった年はありません。しかし、一つのエポックとして一九八一年のリスクアナリシス誌創刊があげられます。同誌はリスク評価やリスク管理、リスクコミュニケーション、リスク認知などの研究成果が発表される学際的な学術誌であり、リスクをキー概念として生態学者や毒性学者、公衆衛生や数理モデルの専門家、そして、私のような社会科学系の研究者等々、さまざまな分野の研究者が集っています。一九八一年創刊ということはそれぞれの分野のリスク研究は一九七〇年代を通して進んできており、それが明示的にまとまりを見せたのが一九八〇年代初めだったといえるでしょう。

 では、リスク研究の胎動期であった一九七〇年代とはどのような年代だったのでしょうか。日本では公害問題が一九五〇年代、六〇年代に深刻化しましたが、一九七〇年一一月に臨時国会、通称「公害国会」が招集され、そこで公害問題への抜本的な方針、すなわち、有害物質の環境への排出を大幅に規制する方針が示されました。

 皆さんも社会の授業で四大公害―熊本水俣病、新潟水俣病、神通川流域のイタイイタイ病、四日市ぜんそく―を勉強した記憶があるでしょう。当時の公害の特徴は、これらのように、特定の地域に集中して悲惨な犠牲が明らかになった、ということです。

このような場合、必要な手立ては速やかに原因物質の環境への排出を止めることであり、将来のリスクを云々するよりも、いま目の前の犠牲者を救い、減らすことが何より重要です。

 一九七〇年代はこういったすさまじい公害の解決を進めながら、次のステップに考え方を移していった年代といえます。次のステップとは「現時点では被害が顕在化していないけれども、将来の広範な被害の可能性を推定し、対応を考えよう」というリスク管理の発想です。例えば、飲料水の汚染はコレラや赤痢、チフスなど致命的な感染症の原因となりますので、消毒が必要です。ところが、主流であった塩素消毒はトリハロメタンという発がん性物質を生み出します。発がん性があるからといって、消毒をやめてしまっては深刻な感染症が発生・拡大する可能性が高い。そこで、塩素消毒によって発生するトリハロメタンにはどれくらいの発がんリスクがあり、どれくらいまでなら許容すべきか、オゾン処理という別の消毒方法と併用してはどうか、等が検討されました。このような目の前に犠牲者はいないけれども、将来のリスクを削減しようという姿勢は、公害対応にある程度の目途をつけられたことで現れてきたものであり、その時期が一九八〇年代初めだったのです。また、原子力発電所の建設が進められ、同時に、建設予定地周辺を中心に根強い反対運動が起こるようになったのも一九七〇年代でした。原子力は当時から今日まで、さまざまなリスク研究分野で最も中心的なトピックであり続けています。

 そして、一九七〇年代は、学術面では記述的意思決定研究が発展した時期でもありました。記述的意思決定研究とは、不確実な状況の中でどのような意思決定をするのが合理的なのか、ではなくて、不確実な状況の中で人は実際にどういう意思決定をしてしまうのか、を明らかにしようとする研究分野です。

 言い換えると「論理的に正しいのはどういう判断か」ではなく「実際にはどう判断しているか」を問題とします。そこでは、人の確率判断は確率論の論理に従っているのか、それとも全然別の理屈でなされているのか、というようなテーマが取り上げられました。他にも、私たちの判断や意思決定の必ずしも合理的とはいえない〝クセ〞が系統立ったモデルとしてまとめられ、心理学的な説明がなされるようになってきていました。

 以上のように、公害問題から環境問題への推移とともにリスク概念が用いられやすい状況が生まれ、心理学の学術的な準備が整ったことでリスク心理学が誕生し、その後の時代の流れの中で人々のリスクへの反応を理解する必要性が一層高まってきたといえるでしょう。

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